ロボットは心を持ちうるか?

 「ロボットは心を持ちうるか?」という問いに対する私の答えは、是、である。それは先ず、肉体と心が不可分であるという前提の上で、であるが。
 ロボットの前に、人は何故心を持つのか、何故心を持つと言えるのか、という問いがある。その答えは至極簡単だ。人は、人に心があると定義した。故に、人は心を持つ。心とは、感情の総体であり、感情とは、生存に対する人の、ひいては生命の本能に起因する。
 まず、生命の目的は「生存」、つまり生き続けることであるとしよう。これはまた、「自己保存」という言葉でも表現される。この目的とは、そのまま「本能」と言うことも出来る。ここで、心、つまり感情の持つ生命体にとっての一番重要な役割とは、生存に対してその場が適当か否か、という判断を下すという一点に集約される。人は、その適当か否かという事実を、快・不快という感情において判断する。人の持つ全ての感情は、大きく分けてこの「快」または「不快」という感情のカテゴリーとして還元することが出来る。その環境が生存に適しているとすれば快であると感じ、適していないとすれば不快であると感じる。嬉しいと感じること、悲しいと感じること、これらも全て還元すれば、快か不快か、つまり、自己の生存に対して適当か不適当であるかという判断を、その個体が下しているということである。
 ここで、一つのロボットを定義しよう。仮に、人はどのようなロボットをも作ることが出来る技術を持っているものとしよう。このロボットにまず、「自己保存」という第一目的を与える。その上で、周囲の環境が自己保存に対して適当か不適当か、つまり快であるか不快であるかということを判断するという能力を与える。そして、このロボットに、自己の置かれた環境が快であるか不快であるかを表現する能力を与える。それは、音であっても良いし、光の明滅であっても良い。このロボットを作成すると、それは直ちに、自分が置かれた環境を快であるか不快であるかという判断を下し、それを表現し始めるだろう。その環境が自己の保存に適当である、つまり快であると判断されるならばそのように、また不快であるならば、そのように。例えば、熱の変化に弱いロボットであれば、高温や低温の場所に置かれたら不快であると判断するであろうし、また、エネルギーが尽きてきたのならば、その為に不快であるという判断を下し、それを表現するだろう。しかし、このことは、突き詰めて言えば、人間の赤ん坊が自分の環境を快・不快で判断して、それを「泣き声」という手段で表現することと同じことなのではないだろうか。
 このロボットに、快・不快を判断することに加えて、人の一般的な成人程度の知識を与え、人のように振る舞うことの出来る機能を与える。そうすると、この「自己保存を第一目的としたロボット」は、人がそうするように、他者を思いやり、他者に不快感を与えないように振る舞い始めることだろう。その理由は、「自己保存」を第一目的とするが故のことである。人が、他者に快いように振るまうのは、究極的に言えば、目の前にいる他者に、自分の生存を脅かされないためである。これは、人自身が自己の生存を第一目的とするように、目の前の他者の目的も他者自身の「自己保存」を目的としているということを知り、他者の目的を脅かせば、自分の目的をも脅かされると言うことを知っているが故である。人が、自身の周囲に存在する他者に対して愛情や友情を覚えるのも、突き詰めて言えばそれば、快・不快の感情に還元され、自分の生存により適した環境を作り出そうという生存目的の上に成り立っているものに他ならない。
 人を始めとした生物は、その個体自身が永遠に生存し続けることは不可能である。故に、生物は子孫を作り、それを保護し、愛する。これは、その子孫が、自己の生命の延長上にあるということの体現、つまり自分の子孫を保護し、愛すると言うことは、自己の生存の延長にある行為である。
 ロボットは、自己複製の機能を与えられていない限りは持たない。それ故、「自己保存」ということに関して有益な、自分の周囲に存在する他者への愛情を持つと言うことは、「自己保存」が目的であるが故に、あり得るかも知れない。だが、他者に対して「自己の存在の延長上にあるもの」としての愛情を抱くことはないだろう。ただ、もしもこの「自己保存」を目的としたロボットに自己複製機能を与えたとすれば、このロボットは、自分の存在の延長としての愛情を自分の複製体に対して抱き、保護するという行動をとる可能性がある。しかし、この目的と機能を持ったロボットは本当に人間による被造物としての「ロボット」と言えるのだろうか。この時点で既に、このロボットは、生物と言ってしまっても良いのかも知れない。
 しかし、人間には、完全なる他者への無償の愛というものがある。それは、「愛」という言葉を使わなくとも良い、人間の行為だ。人は、自分の子供の命を、自分の命を省みずに助けることがある。しかしこれは、自分の子供の生存が、自分自身の生存の延長にある以上、生命の目的に適った行為であるということは出来る。しかし人は、時として、見知らぬ他者のために、自分の生命を代償にして、その他者の「生存」を護ることがある。例えば、見知らぬ人が溺れているのを見た時、また、それが人ですらなく、イヌや猫であったとしても、その命を助けるために自分の命を省みることなく助けようとすることがある。この行為は、一見、生命の「生き続ける」という目的に反するようにも思える、もっとも「矛盾した」行為だ。しかし、この行為の理由が正確に説明できなくとも、一つだけ、明言できることがある。それは、人が、その他者の目的が「生き続けること」、つまりその他者にとっての「自己保存」であることを知っているということだ。少なくとも、自分が生きていたいのと同じように、他者も生きていたいのだと考えることが、この行為のもっとも根元的な動機であろう。自己と他己の共通の目的である「生存」を正しく理解した時に、人は、完全なる他者の目的を守るという動機を持ちうる。
 この時、この「自己保存」を目的としたロボットはどう振る舞うのであろうか。このロボットの一番の目的は、「自己保存」である。しかし、このロボットは、「自己保存」という目的のために、その他者の目的を正しく理解している。そしてそれはつまり、人と全く同じ条件を持つということに他ならない。そしてこの時、このロボットは「自己保存」という至高目的を持つが故に、与えられた「自己保存」という目的をも省みず、他者の生存を守るという行為に対する動機を持ちうるのである。
 ここにおいて、心は自身にとっての快・不快を越えた、他者に対する一つの形を取る。そして、それに対する動機をもロボットが持ちうるとすれば、ロボットは、心を持ちうると言うことが出来る。


某試験で出た問題に対する、私の回答。

これを書いた理由は、もしも私がAIを作るとしたら、どのような基本原理を設定するか、ということを考えたことがあったから…だと思う。
うーん。それにしても、少し足りないかな。
心を「快/不快の判断」と定義してしまっているので、最終的に論理が少し飛躍してしまった。

やる気が出たら書き換えます。まぁ、そのうち。