プロローグ

 頭上には、南国の青い空が広がっている。風は微風で、気温は高く、湿度も高い。
 船が最後に陸地に立ち寄ってから、既に一週間が経過していた。ゆるゆると進む船に、目的地が見えたことを知らせる鐘の音が鳴り響いた時には、船上の誰の顔にも、安堵の表情がうかがわれた。
 船の目的港は、アザーン諸島はルナー島。便は片道2週間、20日に一度の割合で、定期船として運行されている。
 古く、『三人の英雄の島』という伝説の伝わるルナー島は、今は、東方世界最大のフェネス神の神殿の在処として知られていた。かつては、この定期船もフェネス神殿へと向かう巡礼客で賑わっていたものだ。しかしその巡礼客も、5年ほど前、フェネス神殿が一切の祭事を中止して以後、ぱったりと途絶えていた。
 今、この船に乗っているのは、出稼ぎから里帰りする島民と、数人の商人、そして、奇妙な一団だけだった。

「おい、船長。ありゃあ何だい?」
 出稼ぎから、三年ぶりに故郷に帰る男が、島出身の顔見知りの船長に尋ねた。
 男の視線の先には、デッキの椅子に腰掛け、先ほどから微動だにしない男の姿がある。
「ドワーフのお客さんですよ」
「いや、俺が聞いているのはそういうことじゃねえ。あれは何だ、と聞いてるんだ」
 ───────なんだ、と問われるだけのことはある。
 その男は、確かに一目でドワーフと判る、濃い髭と背の低いがっしりとした体格の持ち主だった。だが、問題はそれ以外のところだ。
 まず、その服装。淡いピンク色のレースで縁取られた、フリルたっぷりの華麗なブラウスに、真っ赤な蝶ネクタイを締め、ぴったりと体に沿った、皮のベストを着込んでいる。禿げ上がった頭と、首に巻いた大きな飾り玉は、太陽の光をまぶしく反射して煌めいていた。その上、肩にはドクロとカラスの羽(ドクロは模型かも知れないが)で作られたアクセサリーを着けている。そして、男のデッキチェアには、ハート形の鉄球の付いた、凄まじいヘビーフレイルが立てかけてあった。
「人には色々、趣味というものがありますから」
 いい加減見慣れたらしい船長は、今まで船酔いで自室に閉じこもっていた男に肩を竦めて見せた。

 さて、その渦中のドワーフはといえば、今、まさに午睡から目覚めたところだった。
 この男の名は、(何を後悔しているのかは知らないが)リグレットといい、知識の神を信仰し、必要とあらば正義のために愛用のハート形ヘビーフレイルをふるう勇壮の士であったが、同時に、何よりも美しいものと裁縫を愛する、服飾デザイナーでもあった。
 膝にはしっかりと、この船旅の間に仕上げてしまうつもりだった、繊細な刺繍が置いてある。
 自らの腕前に満足しながら、リグレットは最後の仕上げをしようと、刺繍布を取り上げた。
 と、同時に───────リグレットは、その刺繍布を見つめながら真っ青になり、震えだした。
 それは、自分の作品が無惨にも失われてしまったことと、それが一体誰の仕業───────いや、御業によるものなのかを悟った衝撃によるものであった。


「あーあ、まだつかねーのかよ」
 船の舳先に近い甲板で、縁にもたれかかり、青年は独りごちた。
 その顔の造りは明るいのだが、今は、心底うんざりした、という表情に支配されている。青年の口元はやや皮肉げで、生まれ持った性格の問題点を如実に表していた。短い髪も、それに呼応するかのように、自分勝手な方向に跳ね、自己主張をしている。ただ、指に填められた紋章の付いた指輪、そして、青年のすぐ横の縁に止まった一羽のカラスが、青年が知的エリート階級の長である、古代語魔法の使い手であることを示していた。
 いい加減暴れ出しそうな彼に向かって、その連れが呆れたように声を掛けた。
「ラグ。落ち着けよ。さっきの鐘の音を聴いただろう」
「…アーヴィーン…俺は、慎重だが気が短い。何日前だったかに港に寄った時に、鐘が鳴ってから何時間経って、入港したとおもってんだ?」
 青年────ラグは、自分の名を呼んだ相手に、剣呑な目を向けた。
 対して、アーヴィーンと呼ばれたハーフエルフは、読んでいた本から目を上げて、その視線をさらりと受け流す。
「さあ? 3時間くらいだったかな。よく覚えていないけど」
 切れ長の青い瞳に、色素の薄い髪と肌が、強い日差しの下で、やけに涼しげだ。
 す、と見上げられたその先には、ラグには見えない存在が見えているらしく、それに向かって、アーヴィーンは軽く微笑みかける。
 それをどことなく忌々しげに見て、ラグはまただらりと船縁にもたれかかった。
「あー…ダルい…」
 いい加減、揺れない陸地が恋しくなるというものだ。
 海辺の村で育った彼ですらそうなのだから、何処とも知れない深い森の奥で育った連れの方が、余程陸地を焦がれてもよさそうなものだが、(少なくとも表面上は)アーヴィーンは疲れの片鱗すら見せていなかった。
「あー! やっと見つけた!」
 その時、甲高い澄んだ声が、ラグの鬱々とした思考を中断させた。
 軽い足取りでこちらに駆けてくるのは、独りの子供───────いや、人間の子供ほどの背丈しかない妖精、グラスランナーの少女だ。
「あー? 何だよエイミー」
 エイミーと呼ばれた少女は、ほとんど足音も立てずに、塩水で磨かれ、白く輝く甲板を駆けてくる。
「ラグでもアーヴィーンでも、どっちでもいいんだけど、ギルドラム知らない? 部屋にいなくて」
「知るかあんなの」
「…さあ、今日は朝食の後は見ていない」
 即答したのは、ラグ。その後に答えたのは、アーヴィーンだ。
「うーん、そうかぁ。どうしちゃったのかなー?」
「し・る・かってんだ。考えたくもない」
「ラグラグー、そういう言い方って良くないよ。ああいう風に育っちゃったのは、ギルの所為じゃないんだし」
「だー! 俺のことはどうでもいいだろうが! アレが心配なら、とっとと探しに行けよ!」
「そーする」
 怒鳴ったラグに動じることもなく、エイミーはきびすを返して、船室へと降りていった。
「…まだ、あのショックから回復していないのか」
 どこか哀れむように、アーヴィーンが呟いた。無論、ラグに聞こえるようにである。
「うるせー」
 答えたラグは、今度こそ完全にふてくされたような表情になった。
「何処へ行くんだ?」
「…着くまで寝てくる。港に着いたら起こしてくれ」
 後ろ手に、ヒラヒラと手を振って、ラグもエイミーに続き、船倉に消えてゆく。
 カラスも望楼の上に飛んで行き、その姿を見送ってアーヴィーンは、小さく肩を竦めた。


 さて、船倉ではちょっとした問題が起きていた。
 通路にはすっかり出来上がったらしい商人風の男と、スマートな造りのプレートメイルを着込んだ一人の少女が立っている。
 女性にしてはやや背が高く、骨張った体つきをしているものの、その白い肌と長い艶やかな髪は、通路のおぼろげな明かりの中で一際浮き上がって見える。つぶらな瞳に、長い睫毛が覆い被さり、まさに「瞬きで人を殺せる」美しさを演出していた。
「なあ、姉さん。そう連れないこと言わずに少しくらい付き合えよ」
「いえ、私は…」
 絡んでくる男に、ギルドラムは困ったような目を向けた。
 その、少し上目遣いにも見える視線が、また男の心を刺激する。
 ――───────今まで船室に閉じこもっていたのは、船酔いの為もあったのだが、どちらかといえば、こういう事態を避けたかったからだった。
 ギルドラムが育った山奥の村では、村人全員が知り合い────というよりもむしろ、家族のような関係だったので、こんなことは全くなかった。
 だが、あの事件をきっかけに、村を飛び出してからというもの、男性にナンパされた回数は、両手両足の指の数では数えることが出来ないほどだ。そしてギルドラムが、両手両足の指の数よりも多い数を数えることが出来るようになったのは、ごく最近のことだった。
「…ねえ、おじさん」
 背後から突然子供の声で話しかけられ、男が振り返る。
 男の背後では、いつの間に現れたのか、エイミーがどこか憐れむような目つきで、男を見上げていた。
「人の趣味をとやかくいう気はないけど、知らないかもしれないから、一応、教えてあげる」
「な、何の話だ」
 エイミーの目つきに気圧されて、酔っぱらった男がやや狼狽える。
「あのね? ギルドラムは、最近まで本人も知らなかったんだけど、男の子なんだよ」
「…………」
 一瞬、その場を沈黙が支配する。
「は?」
 やや間をおいて、男が、裏返った甲高い声で、エイミーに向かって問い返した。
 それから、ギルドラムの方へ振り向き、もう一度、エイミーを見る。その動作を何度か繰り返したところで、
「…冗談、だよな?」
 一抹の期待を込めるかのように、首をかしげながら男が問い返した。
 エイミーは真剣なまなざしで男を見つめ返し、ギルドラムが視線をそらす。
「ぷっ」
 不気味な沈黙に包まれたその場で、何者かが吹き出す音がした。
「何をやってるかと思えば、また気持ち悪いことやってんなあ…」
 エイミーの後ろに、ラグが立っている。今まで気付かなかったのは、彼の着ている黒いローブのためだろう。
「ラグ!」
 どことなくほっとしたような調子で、ギルドラムが声の主に向かって呼びかける。
「うっせーこの女男。話かけんな!」
 ギルドラムにこれ以上ないくらいの剣呑な眼差しを向け、ラグは、酔っぱらいに声をかけた。
「おい、おっさん」
 ぎぎぃっと音がしそうなくらい鈍重な動きで、男がラグに顔を向ける。
「まあ、そんなわけだ。あんたがこいつに粉かけるのは自由だが、これ以上俺の前で続けてっとこの場でライトニングぶちかますぞ」
「えっひどーい。私まで巻き込むのー!?」
 エイミーがのんきな声を上げる。
「まあ、不運だったと思って諦めるんだな。というわけで…」
 と、ラグが魔術の構えをとる。
 同時に、はじかれたように、男がその場から退散する。こけつまろびつ、その姿が消えるのを見送って、ラグは魔術の構えを解いた。
「あ、ありがとうございます。助けてくれて…」
「だ・か・ら、話しかけんなっつってるだろうが!」
 律儀に頭を下げるギルドラムに向かって、すれ違いざまに視線も合わせず吐き捨てつつ、ラグもまた、通路の奥へと消えていった。
「あはは。あれはラグの口の利き方なんだよ。気にしないで」
 エイミーがラグの後ろ姿を見送って、気楽に言う。
「分かっていますよ、もちろん」
 エイミーに答え、ギルドラムは微笑んだ。
 ギルドラム。彼女、もとい彼は、生まれ育った村の風習に従い、15才の成人の日まで、女性として育てられていた。普通の子供なら、途中で真実に気付くものの、素直すぎたのか、はたまた頭が少しばかり弱かったのかは分からないが、真実を明かされるその日まで、自分自身のことを女性だと信じ込んで育ってしまった。そして、ギルドラム少年、当年取って16歳。見目麗しく成長した彼は、真実を知らされたショックに耐えかねて、一年前に故郷の村を飛び出し、幼い頃から鍛えられた剣技を駆使して冒険者として身を立てることとなったのであった。


 以上、5名。
 ドワーフの神官リグレットを筆頭に、魔術師ラグ・ランスリンド、精霊使いにして賢者のアーヴィーン、盗賊にして歌うたいのエイミー、美少年戦士のギルドラム、彼らが、この物語の主人公にして、世界を救った英雄として、後に世界中に名を馳せることとなる勇者達であった。





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