一. 穏やかな海風の吹く山懐の沃野が、その国であった。 背後の険しい山々と、それを取り巻く深い森が、都からそう遠くはないこの国を辺境のように隔てており、人々は都とそこにおわす大王の存在を、時折伝え聞くばかりである。 里近い山肌には既に田植えの終えられた棚田と桑畑、そして里山は滴るばかりの緑に埋められている。その向こうには、穏やかな海が広がっており、その海は春先には時折、遠く異国の幻を見せることもあったが、今は、空の青さを映すばかりだ。 散在する素朴な造りの民家とは対照的に、海に程近いなだらかな山の麓にはしっかりとした木造の館があった。都の建造物に慣れた目の者が見れば、それとてごく素朴なものではあったが、そこがこの国の国長の座所である。 さて、風光る皐月の、ある午後のことである。 春の農事が一段落し、農民たちが一息をつく中で、国長の館ではその日は早朝から、その年の豊穣を願う祭事が執り行われていた。その一連の中の最後の儀式が、今、これから始められようとしていた。 天幕の張られた館の中庭は、緊張感で静まり返っていた。遠く聞こえる小鳥のさえずりだけが、その静寂を乱している。 天幕の中には国長を始め、国の重鎮たち数名が席に着いていた。世継である空木の君だけが、体の具合を慮られ、この催しに際しては、館の内に席を設けられており、この場からは姿を覗えない。一段高い席に着いている国長の灯月は、年の頃四十ほどの浅黒い肌に精悍な顔つきの、均整の取れた体格の大男だった。顎に蓄えられた髭も黒々と、見る者に豪放な印象を与えている。その隣、やや低い位置に着くのが、青白い顔をした狐目の男、年の頃はこちらも四十ほどであろうが、冷たい表情の貼り付いた仮面のような顔は、どことなく年齢をあやふやにさせている。この男が、国長を補佐する大宰の柊白である。それに国の高官らが並んでいるが、末席に一つだけ、空席があったが、これは招じられた人物が、出席を固辞したためだった。天幕の外には、従者たちが、跪いたまま控えている。 そして、中庭の片方の端には、白絹を張られた的、中庭の一方の端には、弓をつがえた一人の少女が立っていた。 中庭の片端に立つ少女は、白の単に裳という簡素な服装ながらも、しゃんと伸びた背筋と、しなやかに構えられた腕から、場に凛とした存在感を与えていた。豊かな黒髪は、頭の高い位置で結い上げられてなお腰の辺りにまで流れ、肌は白いながらも少女らしく溌剌とし、その内側に漲る生命力を感じさせる。緩やかな曲線を描くくちびるは、今は強く引き結ばれ、的を見据える瞳とともに、少女の意思の強さを思わせた。 これが、国長が一の姫、暁の君────暁姫である。楽の名手として聞こえた先の常葉の姫巫女、凪姫に対して、暁姫は弓の名手として名高い。 少女が臨む儀式は、国祖が弓の名手であったことより、毎年、国祖の血を引く者の中で一番の弓の使い手が、前年に織られた最初の絹に描かれた的を、最初に実った稲の穂を結びつけた矢で射抜くことで、その年の豊穣を祈るというものである。 この儀式における弓の使い手は、今年は暁姫と柊白が息子、秋霜という青年の間で争われたが、最終的に使い手としての腕は一番の、暁姫が選ばれた。 女君である暁姫の儀式に立つことに対する抵抗は根強いものであったが、かつて、やはり国長の姫であった者がこの儀式を執り行い、その年は稀に見る豊穣であったという前例により、その問題は解決された。 しかしながら、暁姫の人目を惹く容貌が、かつての凪姫を彷彿とさせるものであることから、暁姫が国事に携わることに関しては、必要以上に風当たりが強かった。 それを跳ね除けたのは、やはり使い手としての暁姫の腕、そして、何よりも世継である空木の君の強い推挙によるものであった。 決して優しいばかりとはいえない視線の中で、少女は小さく息を吸った。 次の瞬間、ビィンという弦の弾かれる音が、その場に響く。 放たれた矢は空を切り裂き、鈍い衝撃音と共に、白木に張られた絹の的の中央に、見事突き刺さった。 稲穂を結び付けられた矢羽は微かに震え、やがて、その動きがぴたりと止まる。 少女が弓を降ろす。 厳粛な儀式の場ゆえ、歓声こそ無いものの、その場の雰囲気はにわかに緩んだ。 暁姫は天幕に向き直り、一礼をする。 「見事であった」 父である国長に声をかけられ、暁姫は、かすかに華やいだ表情を見せた。 祈文を読み上げる大宰柊白の声が響く中、再度、暁姫は礼をし、その場を辞した。 「お見事でございましたな、姫様」 催場から裏手に入ると、直ぐに松馬が顔を見せた。 松馬というのは、幼少時より姫の教育を任されている小兵の老人だ。その頭は、最近、暁姫の記憶する最初の姿よりも、尚白くなったようだった。 「爺、あまり……」 松馬に弓を手渡し、暁姫は嬉しそうな表情を浮かべながらも、低い声で言いかける。あまり大きな声を出すな、といいたかったのだ。ここでは、催場に声が聞こえてもおかしくは無い。しかし、暁姫の言葉は、彼女の背後からかけられた冷たい声によって遮られた。 「お見事でしたね、暁姫殿」 華やいだ気持ちが、急速に退いていく。暁姫は、嫌々ながらも声の主に向き直った。 声をかけてきたのは、華やかな服装の、年の頃で言えば十七、八の、少年ともいえる若い男だった。男の背は高く、面立ちは暁姫自身にもやや似たところはあるが、それよりも、大宰の柊白にそっくりな狐目で、造作は整ってはいるがそれよりも冷たさばかりが先に立った。華やかな衣装も、その刺々しさを和らげるには至っていない。 この男が、先の儀式でその地位を暁姫と争った、大宰柊白の息子、秋霜である。 丈高い男に気を飲まれぬよう、小柄な暁姫はもともと良い姿勢をさらにただした。 「お褒めの言葉、光栄に存じます。秋霜殿」 この男を恐れているわけではないので、声が震えるようなことは無かったが、それでも声はひどく硬い。 「さすが、野分の君に似ていると言われるだけのことはある。 ────いや、失礼。さすがの野分の君も、武術には通じておられませんでしたね」 ゆっくり、噛み砕くように発せられる言葉は、一言一言が氷の刃のようだ。内容もさることながら、その問題は発し方にあり、秋霜自身、それはよく心得ているようで、実に効果的にそれを用いる。 「さあ、私は存じ上げません」 怯むな、と自分に言い聞かせながら、暁姫が言う。言いながら、兄上のような柔らかい話し方が出来ればいいのに、と願っていた。しかし、もって生まれた性質は、嘆いても仕方のないことだ。 「おや、気に入りませんか。私はあなたを誉めているのですよ」 そう言って、秋霜は笑う。聞いている方は、いっそ笑わなかった方がましだと思えるくらいの冷たい笑い声だった。 「ありがとうございます」 若干、声が震えた。暁姫は、奥歯をかみ締める。 「秋霜殿、そのくらいに。幾ら暁姫に負けたからとて、そのような物言いは、無礼が過ぎますぞ」 松馬が暁姫と秋霜の間に割って入った。背の低い松馬を、秋霜が冷たい目で見下ろす。 「負けた?」 秋霜の声は、嘲るようだ。 「ああ、そうでしたね。もちろん、私めなどよりも暁姫殿の方が的を射ることにかけては、優れた腕をお持ちでしょうとも」 松馬ではなく、暁姫を見つめて、秋霜は続ける。 「しかしながら、弓の腕とは、それだけではないのですよ。暁姫殿も、ゆめゆめお忘れなきように」 「心得ておきます」 充分に含みを持たせたように聞こえる秋霜の言葉に、暁姫は答えた。 「ともかく、暁姫殿。あなたの弓の腕前が、よもやこれ以上の役に立つなどということの無いように祈っておりますよ」 戦場に女が立ったなどと諸国に聞こえては、国の恥ですからね、と笑い、秋霜は悠然とその場を去っていった。 秋霜が充分遠くに去ったことを確認してから、暁姫は小さく溜息をついた。 祈文を読み上げる大宰の声は、今でも聞こえている。先ほどのやりとりが催場にもれ聞こえているということはなかろうが、それでも、何だかやりきれない気持ちではあった。 「姫様」 自分を気遣う松馬の声に、暁姫は苦笑いを浮かべた。 「いや、大丈夫だ」 「ならばようございますが」 と、松馬が言う。秋霜の残していった刺のような残滓を振り払うように、暁姫は手早く弓掛を外し、形ばかり背負っていた矢筒と共に、松馬に手渡した。 「姫様はこれから────」 「ああ、夜の宴で何やら舞を舞えとかいう話だ。少し稽古してくる。 付け焼刃だが、何もしないよりはましだろう」 松馬の言葉に、面白く無さそうな顔で暁姫は言った。暁姫は弓には秀でているものの、剣はそこそこ、舞の腕は十人並み、楽に至っては人に聞かせるのも恥ずかしいほどで、天は二物を与えずというのは確かに本当なのだろう。 「そうですか。それでは、お励みくださいませ」 暁姫の渋面を見て、松馬が笑った。暁姫は再び溜息をつくと、表情を正した。 「では、行ってくる」 そう言いながら、高欄に手をかけて、回廊に飛び乗る。長い髪が、馬の尾のようにしなやかに揺れた。姫、という松馬の叱責を尻目に、暁姫は回廊を駆け出していた。 駆け出してはみたものの、だんだん重くなってくる気持ちに、暁姫の足は自然、鈍った。 舞を披露するなどということに気が乗らないのは勿論だが、心に引っかかっているのは先ほどの秋霜とのやり取りだ。 見透かされているような気がした。それが、何よりも悔しい。 努めて感情を抑えようとしながらも、それが常々上手くいっているとは言いがたいことは暁姫自身、承知していた。兄のように常に穏やかであるか、父のように豪放であるか、そのどちらかであることが出来れば、このような悩みを持たずに済むのに、と思う。 暁姫は、ふと、母はどうだったのだろうと思った。母は兄には似ていたが、自分とはちっとも似たところが無く、霞の向こうの天女のように儚げで美しい女性だった。このように自分の母を思うのもおかしなことだが、彼女にとって、母は酷く遠かった。まるで哀しみ以外の感情が麻痺してしまったような母は、笑い顔を見せたことも無ければ、死ぬまで一度とて彼女を抱くことも、言葉を掛けることもしなかった。 暁姫が三つを数える前のことだが、それでも尚、母の姿は暁姫の脳裏に焼き付いている。 「むずかしい顔をして、どうしたんだい」 背後から、不意に柔らかな声をかけられ、暁姫は我に帰り、足を止めた。 そんなに顔に出ていたのだろうか、と考えて、相手が声をかけてきたのが背後からだったことに気が付いた。慌てて表情をただし、振り返る。 そこに立っていたのは、齢二十と少しばかりの、柔らかな雰囲気の男だった。上背はあるものの、結い上げられず柔らかく下ろされた髪と、女性的な顔は優美で、少しもいかつい感じを与えない。これが、暁姫の兄であり、この国の世継、空木の君である。 「むずかしい顔など」 と、暁姫は言った。その顔を見て、空木の君は微笑む。 「そうかな。ならば、よいのだが」 それこそ見透かしているような言い方だが、その言葉にはちっとも厭味が無く、人の心を和らげる不思議な何かがあった。空木の君は、そういう男だった。本人は春の霞の向こうにありながら、全てを見通している。同時に、館で働く下々の者の名や性質まで完全に把握し、細やかに気を利かせるので、彼に心酔する人間は殊のほか多かった。これで病弱でさえなければ、というのは国の者皆の思いだろう。 「先ほどは、見事だったね」 暁姫の間近まで歩み寄ってから、空木の君はそう言った。 「ありがとうございます」 零れんばかりの笑みを湛えて、暁姫は兄に礼を言った。秋霜が暁姫の心に刺していった棘は、あらかた溶けて、消えてしまったかのようだ。兄が笑って、暁姫の頭をぽんぽんと撫でた。少しくすぐったさを覚えるが、子どもの頃に戻ったようで、暁姫は嬉しかった。 暁姫は、兄が好きだった。母が既に他界し、父は父である以前に国長であり、どちらも遠い存在である暁姫にとって、唯一の親族であり、心を許すことの出来る数少ない相手の一人が、兄だった。兄が居なければ、自分の人生はどんなものだったのだろうと思う。 「そういえば」 暁姫の頭に手を置いたまま、空木の君が言う。 「先ほど秋霜殿と行き会ったが、ひどく御冠だったようだよ。また何かあったのかい」 探るような目で、暁姫の顔を覗き込む。咄嗟に嘘がつけずに、暁姫は、はいと答えてから、慌てて首を振った。 「いえ、何でもありません。儀式のことをお褒め頂いたので、お礼を申しただけです」 嘘ではない。ただ、それだけのことなのだ。それだけのやり取りがここまで刺々しいものになるとは、我がことながら妙な感心を覚える。 「そうか。でも、お前はもう少し、あの方と仲良くした方がいいよ。彼は、お前の許婚なのだからね」 兄の言葉に、いつもは蓋をしている不快感が、不意に蘇った。 「私は嫌です」 思わず、言葉が口をついて出る。 「秋霜殿は、従兄というだけです。あんな男と夫婦となるくらいならば、常葉にでも行った方がましというもの。それを、何故……」 言葉が継げなかった。唇をかみ締めた暁姫の肩に、そっと空木の君が手を置く。 「お前も分かっているだろう。私は長くない。お前は、そうしなければならないんだよ」 低い声で、空木の君が言った。黙ったまま、暁姫は被りを振った。言葉を発すれば、涙を堪えることが出来なくなるからだ。 認めたくないことばかりだった。兄の掌の温もりを肩に感じながら、暁姫はうつむく。 軒から差し込む陽光も、柔らかな風も、何もかもが呪わしい。 空木の君は、暁姫をそっと抱き寄せるようにその手を引き寄せた。 空木の君の纏う香が暁姫を包み込む。そのまま泣くことが出来ればどれほどいいだろう、と考える。けれど、それを行動に移すことはしなかった。 永遠とも思える束の間が過ぎ、空木の君が、口を開いた。 「ところで、姫はどこかに行く途中だったのかな」 兄の言葉に、暁姫は自分のしなければならないことを漸く思い出す。 「はい。夜の宴で舞を、とのことなので、稽古をしなければ」 「それは楽しみだね」 笑ってそう言った兄に、やめてくださいと言って、暁姫は、慌しくその場を後にした。 「嫌われたものだね、お前も」 少しばかり哀れを催して、先ほどから、回廊の角で出るに出られず立ち尽くしていた人影に、空木の君は声を掛けた。秋霜である。 姿を現した秋霜は、声をかけた空木の君を憎しみを込めた目で睨みつけた。 「私は、あなたが嫌いだ」 吐き捨てるようにそう言って、秋霜はその場から走り去る。空木の君は、やれやれ、というように溜息をつき、それからふふと笑った。 「嫌われたものだね、私も」 見上げる空は、何所までも高く、青い。 この賭けに勝てれば、少しはあの二人が上手く行くように考えてやることも出来るかもしれない。何もかもが上手くいけば、それが一番いいのだ。 そう、祈らずにはいられなかった。 |