三.

 雪野の葬儀は行われなかったという。燃え残った産屋は取り壊され、そのまま遺体ごと埋められた、その話を聞いてようやく、暁姫は自分が悲しいのだということに気づいた。
 雪野の死は、幼い頃の時間を共にしたものとして、もちろん悲しい、
 ただ、それはどちらかといえば表層的なもので、心のもっと深い場所で、何かが失われ、永遠に戻って来ないような気がした。
 兄の空木の君は、その後はすっかり平素どおり、穏やかで優しいいつもの兄だ。
 しかし、兄があの時に下した判断が、いつまでも心に深々と刺さっている。
 父や兄の判断が正しかったのだ、と思いたい一方で、理性の面でも、感情の面でも、割り切れない何かが残っていた。

「暁姫様」
「何用だ、爺」
 自室の壁にもたれかかったまま、ぼんやりと暁姫は答えた。
 御簾の向こう側に、気遣わしげにこちらを向いて跪く松馬の姿が見える。
「弓の稽古はなさらないのですか」
 これまで、毎日のように続けてきたのだから、当然の反応ではあろう。
 雪野の話があってから、既に三日が経過していたが、その間一度も暁姫が弓に触れることは無かった。
 本来であれば、今日が生まれた赤子を処刑するはずの日だ。
「今はいい」
 弓には触れたくない、というのが正直なところだ。弓術にしろ剣術にしろ、それらが畢竟、人を殺めるための術だということは、知っていると思っていた。しかし、あの瞬間、人を自らの手で殺めなければならないというその道を迫られたその瞬間まで、そのことを本当に理解してはいなかったのだ。
 そして、それが自分には出来ないことであるということも。秋霜が、あの時自分が、と言い出さなければ、少なくとも、あの場では雪野の子供を暁姫がその手で殺すことに決まっていたのだ。
 的を射抜くというただそのことにおいては、暁姫の方が秋霜よりも優れていたかもしれない。けれど、弓術が人を殺めるための術であるという事実の前では、秋霜の方が、暁姫よりも遥かに優れていたのだ。
 悔しいのは、秋霜が自分より優れていたことではない。ただ、自分が優れていると思っていたことだ。その事実が事実であるだけに、悔しい。
 弓の才能はあったようで、弓を握ったその日からめきめきと上達した。的を定められれば、どのようなものでも寸分違わず射抜くことが出来、誉められ、得意になっていた。
 その全てが、今は呪わしい。
 人を殺めることが出来ると思っていたこと、それが得意であるとすら、思っていたこと。
 ────彼女が殺めなくても、誰かが殺めるということ。つまりは、そういうことだ。
「では、楽は」
 望み薄そうに、松馬が言う。
「昼日中に楽などやるものか。それも、このような凶事の後に」
「そうでございましょうね」
 松馬は気落ちした様子だ。
「……しばらく、放っておいてはくれないか」
 考えたいことがある、と暁姫は思ったが、一体自分が何を考えたいのか分からなかった。
「いけません。昨日もそのようなことを仰っておられましたが、昨日から様子が変わったようには見えませんよ」
 そういえば、この二日間、同じ言葉で松馬を遠ざけてきたのだ。今日ばかりは、と松馬は譲る様子はなさそうだ。
「姫様はそもそも、お部屋に篭もって気持ちの整理のつく方では御座いません。そのことは、この爺がよおく存じております。
 もしも何か考え事をなさりたいなら、体を動かしながらお考えなさいませ」
「おかしなことのあるものだ」
 いつもならば、外に出すぎるというお小言ばかりなのに、と暁姫は言った。
「それは姫様が、申し上げてもお聞きにならないことが分かっているからでございますよ」
 苦笑いを浮かべながら、松馬が言う。その物言いが可笑しくて、暁姫は思わず笑ってしまった。笑ってみると、不思議に元気の出ることが分かった。
「仕方がない。爺がそこまで言うならば、少し出るとしよう。文句は言うな」
 そう言って、暁姫は立ち上がった。
「何所においでですか」
 立ち上がった暁姫を見て、松馬は安心した色を見せたものの、その言葉にはふと、不安を覚えたらしい。
「そう無茶はしないよ。虚空大師のもとに参るだけだ」


 もう少しお小言を貰うかと思ったが、意外にあっさりと解放されて、暁姫は館の回廊を厩舎に向かって歩いていた。 松馬は馬の仕度をして参ります、と言って先に駆け出していった。
 ふと前をみやると、今最も会いたくない人物がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 秋霜である。同じ館に住んで居るわけではないのだが、向こうは役職つき、しかも税の管理を任されている立場ゆえに、館詰が多い。自然、顔を合わせる頻度も高かった。
 隠れようにも、向こうは既にこちらに気づいているらしい。
 それでも、余程きびすを返そうかとも思ったのだが、それも癪に障る。歩調を変えずに、暁姫はそのまま進んでいった。
 一番良さそうなのは、無視してすれ違うことだった。
 すれ違うあたりで心持ちうつむいて、頭を下げたように見えなくも無い角度で、相手の顔を見ないように速足で歩く。
 目論見は、ほぼ成功したように思えた。
 しかし、案の定、秋霜は素通りさせてくれる気は無かったようだ。
 すれ違ったところで、声がかかった。
「お久しぶりです、暁姫どの」
 声をかけられては、立ち止まらざるを得ない。不承不承、暁姫は振り返る。
 黙って会釈する。
「先日の席では失礼致しましたね。あなたのお役目を横取りしてしまうような真似をいたしまして」
 白々しく、秋霜が言う。秋霜の声音は、相も変わらず氷のように冷たい。
「結局は無しになったことです」
 本来であれば、秋霜は、今日赤子を殺めるはずだったのだ。そう、暁姫は思った。
 秋霜の様子はいつもと変わらない。この男にとっては、赤子を殺めることなど、さしたる難事でもなかったのだろうか。そう考えると、ますます秋霜に対する嫌悪感が募る。
「そうでしたね。あの席でのあなたが、あまりにも動揺していらっしゃいましたから、横から口を出してしまいました。平にご容赦願います、暁姫どの」
 心にも無いことを、と暁姫は考える。
「それは、お気遣いありがとう御座います」
 口が曲がりそうな気がしたが、とりあえず言葉を発した。その必要はありませんでしたけれど、と続けようかと思ったが、あまりに嘘なのでやめておいた。それに、言葉だけでもそんなことは言いたくは無かった。
「こちらこそ」
 にこやかに、秋霜が言う。よくもこう、短い言葉にこのような毒を忍ばせることが出来るものだ、と、暁姫は多少感心した。
「お出かけですか」
 暁姫の持った笠に目を止め、秋霜が言った。
「はい」
「どちらまで」
「何所でもいいでしょう。あなたには関わりがないことです」
 秋霜の真似をして、出来る限り冷たく言おうとするが、中途半端に終わる。
「関わりが無い?」
 心外だ、といった調子で秋霜が言った。不意に、秋霜が暁姫の腕を掴み、自らの元へ引き寄せる。
「あなたはいずれ、私の妻となる人ですよ。何所へ行くか気にして、何の不思議がありましょうか」
 間近で、囁くように言う。振り払おうにも、二の腕をしっかりと掴まれており、ちょっとやそっとでは身動きが取れない。
「私は……っ」
「無駄なことはお止めなさい。あなたが幾ら嫌がったとしても、既に定められていることです」
 暁姫は、渾身の力をこめて、秋霜を突き飛ばした。
 秋霜が転ぶようなことはさすがになかったものの、暁姫は秋霜から逃れることが出来た。
 ────暁姫の反撃に驚いて、秋霜が腕を放したというのが正しい。
「私は、進んで人を殺そうとするような人間は嫌いだ!」
 高い声で、叫ぶように言った。秋霜が、再び伸ばしかけた手を止める。
 その瞬間、暁姫は不思議なものを見た。
 秋霜の目の奥に、ひどく傷ついた色が垣間見えたのだ。それは、ごく一瞬開いた亀裂のようなもので、次の瞬間には、再びぴたりと閉じてしまった。
 秋霜は、いつものように氷の仮面を被る。
「────人は、人を殺めるものです。特に、上に立つ人間は」
 静かな声音で、秋霜が言う。
「情に流されつづけては、あなたもいずれ野分の君と同じだ」
「失礼する」
 その言葉の続きを聞きたくなくて、暁姫は走り出す。
だが、秋霜のよく徹る声は、背中から、残酷にも暁姫の心を貫いた。
「かの月人を殺めることを決めたのは、あなたの兄上ですよ。暁姫どの」


 虚空大師は、僧侶でもなければ、暁姫の何かの師というわけでもなかった。
 二十年ほど前に、大王のおわす都から、この地に移り住んできたという人物で、一説によると、都での政争に破れ、謀殺されるところをからくも逃れてきたと言う話だ。
 都では大学者だったということで、法律や数学、暦、また様々な儀式の知識に長じている人物だった。
 現在の齢が四十代の半ばということで、この地に来た年齢が二十五ほど、どれだけ優秀な人物であったかが忍ばれる。それだけに、敵も多かったのであろう。
 都に税を納めるための国長の使いや、都よりの伝令、また、完全な浮浪の民以外に人の流れが殆ど無いことを考えると、虚空大師の存在は大変奇異であった。
 しかし、彼の持つ知識はこの弓月の国において、喉から手が出るほどに渇望されていたものでもあり、それゆえ、彼はここに安住の地を見出したのだ。
 再び政争に巻き込まれることを嫌った虚空大師は、政治の表舞台からは一歩退いたところで、人々に知識を教授することだけをその仕事とし、与えられたごく小さな領地から上がる税で生活している。
 造作が特に優れているというわけではないものの、その理知的な人柄から、彼に憧れる女人や、娘を嫁にやりたがる者は今でも後を絶たないのだが、彼は少なくともこの地においては、一度も嫁を娶ることは無く今日まで来ている。
 そして、彼はまた、暁姫の名付け親でもあった。

 虚空大師の庵は、国長の館から馬を飛ばして一時ほどのところにあった。
 ここから、さらに半時ほど行くと、常葉の社の領地に入る。ただし常葉の社の領地には国長以下、数名の許された人物しか入ることは出来ず、彼らですら、掟により取り決められた儀式の際のみにしか立ち入らない。常葉の社の領地には、常葉の姫巫女、以下、毎年選ばれる数名の女たち、そして宦官だけが暮らしていた。常葉の姫巫女不在の現在は、本来ならば姫巫女を補佐する立場の三名の巫女と、領地を維持するための宦官だけがその地に住んでいる。
 外出に従者なし、とはいかなかったが、今日は特別に、警護の者を二人つけられただけで済んだ。彼らは、虚空大師の身の回りの世話をしている老婆の小屋で休んでいる。
「大師は学者なのだから、もう少し凝った名前にしてくださればよろしかったのに」
 暁姫は、大師の庵に着くなり、開口一番そう言う。
「そうは言っても、急だったからね。暁だから暁姫、と口にしたが早いか、その名前に決まってしまったのだよ」
 このやりとりは、既に二人の間では、挨拶代わりとなっていた。
 虚空大師は穏やかな話し方をするが、受ける印象は、空木の君のものとは全く違う。空木の君が一種捉えどころの無いほど柔和な印象を与えるのに対して、虚空大師は極めて明瞭だ。全体的に骨ばった印象の男で、歳の所為か最近は少し白いものの混じってきた髪は、丁寧に後ろで結わえられ、生成りの麻布で作られた簡素な衣服は、清潔感が漂っている。
 前触れも無く訪ねてきた暁姫を、虚空大師は快く迎えてくれた。
「薬ですか」
 床に広げられた鉢や古びた書、漂う匂いに、暁姫は尋ねた。
「ああ、領民の牛が、乳房炎にかかったらしい。何とかならないかと言うものだから、薬を調合していたんだ」
 散らかっていてすまないね、と言いながら、大師は暁姫の席を用意する。
「大師は薬の処方にも通じておられたのですか」
「専門外ではあるが、まるっきりの門外漢というわけでもないよ」
 そう彼が言うからには、大抵の薬師よりは、少なくとも学問においては通じているのだろう。
「疲れているようだね」
 暁姫が座るなり、虚空大師はそう言った。
 少女は、素直に頷く。
 彼女は兄が好きではあったが、実際には、虚空大師の元に居る時が、一番心の安らぐときであったかもしれない。権力にも、この国の掟や様々なしがらみにも関わりの無いところで生きている人物ゆえであろうか。
「何か飲むかな」
 陰火の入った囲炉裏の上に吊るされている鉄瓶からは、薬湯の匂いがしていた。
「苦いのは嫌です」
 笑って、暁姫が答える。
「それは困ったね。まあ、薬だと思って飲みなさい」
 大師は少女の要求を意にも介さず、鉄瓶から小さな湯飲みに薬湯を注ぎ、暁姫に手渡す。
 手渡された湯飲みからは、茶色がかった深い緑色の液体が入っており、薬そのものの匂いが漂ってくる。
「飲まなければいけませんか」
「飲みなさい」
 大師に繰り返され、暁姫は仕方なく湯飲みを口に運んだ。
 薬湯は案の定ひどく苦かったが、何とか飲み干し、口の中に残るえぐみに顔をしかめていると、虚空大師が別の鉄瓶に入っていた白湯を注いでくれた。
「色々あったようだね」
 大師が言った。
「何故、あの日はいらっしゃらなかったのですか」
 返される答えは予想がついたが、それでも暁姫は尋ねた。
「ここにも知らせは届いたがね。この国の古くからのしきたりは、私の口を出すところではないよ」
「でも……」
 それでも来てくれれば良かったのに、と暁姫は思った。
「私がそこにいることは、この場合には害にしかならない。私は他所者だからね」
「大師は、私よりも古くからこの地にいらっしゃいます」
 暁姫の言葉に、虚空大師は笑った。
「もちろんそうだ。でも、この地で生まれた国長の姫と、他所で二十五年余も過ごしてきた、流れ者とでは全然違うさ」
 暁姫は、黙って白湯を啜った。暫く躊躇った後、やがて意を決して、暁姫は口を開く。
「大師。大師は、月人をどう思われますか」
 少女の言葉に、虚空大師は驚いた様子は無い。ここに来たときから、何を話しに来たのかは分かっていたのだろう。
「どういうことが聞きたいんだい」
 大師が、静かに返す。
「月人とは、どういうものなのでしょう。人なのでしょうか。人でないとしても、それが罪であると言われても、私にはわかりません」
「ふむ。難しい問いだな」
 そう言って、鉄瓶から自らの湯飲みに薬湯を注いだ。少し啜って、顔をしかめる。
「やはり苦いな」
「大師」
 なかなか答えを言わない大師に、暁姫は焦れた。
「まあ、急くな。そうだね、私は、月人そのものについては知らない。けれど、月人のような人間は、他でも見たことはあるよ」
 記憶を辿るように、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「人間、ですか」
「常人と少しでも違いがあれば、人はそれに恐れをなす。けれど、私が会ったことのある人物は、私は人と変わりないと感じたよ」
「恐れをなす……」
 言葉に引っ掛かりを覚えて、暁姫は繰り返した。
「月人を─────他では、月人とは呼ばれず、白子、と呼ぶのだが、それを恐れ、禁じる掟はここだけではない。常と違うものが現れるので、何かの予兆であると感じるのだろうね。だが、何かが起こるとは限らない。何か起こるときは、大抵、何の予兆も無く起こるものだと、そうは思わないかい」
 言葉の内容全てに、実感をもてたわけではなかったが、暁姫は頷き、ふと、聞き返す。
「月人は、月人の血を引かずとも生まれるのでしょうか」
「白子の出た家系から、白子の再び出ることは、他と比べれば、多いとは思うよ。その源流が月人と同じかどうか、私にはわからないが、逆に、まったくそのような人物の出たことのない家系から生まれたという記録もあった。いずれにせよ、確証は無いね」
 暁姫は頷き、言葉の意味を考える。
「私は……」
 言いかけて、暁姫は口を噤んだ。
「なんだい。暁姫らしくないね」
「口外しないと、約束していただけますか」
 大師がそんなことはしないと分かってはいたが、念を押す。
「ああ、約束しよう」
「私は、月人が罪であるとは思えないのです」
 口にすると、言葉は奔流のように出てくる。
「月人のことは分かりません。本当に、人々を苦しめていたのかもしれない。
 弓月の君を殺そうとしたのだって、本当でしょう。
 けれど、弓月の君だって月人を沢山殺めたはずです。
 弓月の君が生き永らえていなければ、私は今ここにはいません。
 けれど、私には分からないのです。月人が、月人であることが、その血を絶やさねばならぬほどの罪であるということが」
 言葉を紡ぎだしながら、雪野の赤子を自分が殺すことになりかけた時の感情が、胸に蘇る。頬を、涙が伝っていることに気づく。
「人を殺めることが、どんな場合であっても、正しいことだとは私には思えないのです」
 口にしてから、それが一番胸につかえていたことだったのだ、と、悟った。
 例え兄が真逆の判断したとしても、父が下した決断でも、天下万民がそれが正しいのだと言ったとしても、暁姫はこの瞬間、自分が言ったことが、自分の信念であり、決して曲げることは出来ないものなのだ。涙が、はたはたと膝の上に置いた手に落ちる。
 虚空大師が、ゆっくりと口を開いた。
「そうだね。暁姫だから言うが、個人的には私もそう感じるよ」
 虚空大師を見ると、視線を落としたその顔にはどこか不思議な笑みが浮かんでいた。
「全く分からない。何故、君がそこに辿り着いたのか」
 虚空大師が呟いた言葉は、ほとんど聞き取れないほどの大きさだった。
 けれど、その言葉は暁姫の耳を捕らえ、心に刻み込まれる。
「政の上では」
 虚空大師が言った。
「上に立つ者は、人を殺めなければならない場合がある、という。私は、それが良いことだとは決して思わないが、それが必要な場合も時にはあるかもしれない、とは思う」
 暁姫は顔を上げた。その顔を、虚空大師が見つめる。
「これを、君に理解してもらおうとは思わない。けれどね、暁姫。その場合というのは、出来る限り少なくなければならないと、私は思うのだよ」
 そう言って、口を閉じる。
「勿論、そんなことが無いというのが一番だとは思うのだがね」
「……はい」
 暁姫は頷く。
「ただ、このことだけは覚えておきなさい。こういった思想を持つ人間が、一番先に淘汰されるのだ、とね」
 私は後悔はしていないが、と虚空大師は笑った。暁姫は、微笑むことも出来ずに、その顔を見つめた。この人も、ここでこうしているべき人間ではないのだろう。本来の人生というものがあったとすれば、この人は、都で生まれ、都で死ぬはずだったのだ。何が彼の人生を狂わせたのかはわからないが、彼は都を追われ、今、この地でこうして、人生の残りを費やしているのだ。
「常葉の姫巫女が────」
 自分の口にした言葉に、暁姫は少し驚いたが、そのまま続けた。
「常葉の姫巫女がいなくなったことは、月人の出現に関わりがあるのでしょうか」
 この言葉で、虚空大師を驚愕させることになるとは思わなかったのだが、彼は驚いたらしい。しばらく暁姫を見つめ、それから後、口を開いた。
「そうだねえ」
 虚空大師にしては、珍しく歯切れが悪い言葉だった。
「君の言うような意味、月人の怨念を鎮めるという意味では、関わりは無いと思う」
 暁姫の怪訝な眼差しに気づいたらしく、虚空大師は誤魔化すように笑う。
「森羅万象、どのようなことにも、関わりはあるかもしれないということさ」
 納得したわけではなかったが、暁姫は頷いた。また、あの感覚だ。誰もが、自分が知らないことを知っているのではないかという、あの感覚。問いただしても、無意味であることは分かっていた。
「一つ、君が嫌がることを教えてあげよう」
 不意に、人の悪い笑みを浮かべて、虚空大師が言った。
「何でしょうか」
「私は、君が辿り着いた信念と、ほとんど同じ言葉を昔、聞いたことがある」
 胸の深いところがざわざわと鳴った。
「常葉の姫巫女────凪姫だよ」
「大師は……」
 言いかけた暁姫に、虚空大師が頷いた。
「言ったことは無かったかもしれないね。私は、常葉の姫巫女、いや、凪姫を知っている」
 どこかで裏切られたような気持ちがしたが、自分がそれで傷ついていないことに、ふと暁姫は気が付いた。
「私は、凪姫に似ているのでしょうか」
 大師の言葉ならば、信じられると思った。
─────いや、それよりも。
 本当に凪姫を知っていたのは、虚空大師だけだったのではないかという奇妙な思いが、暁姫の心に芽生えていた。
 虚空大師が頷く。
「君たちは実際、よく似ていると思うよ。顔かたちも似ているがね。そんなことより、その心根がそっくりだ」
 湯のみの中に残っていた薬湯を飲み干し、虚空大師は言葉を続ける。
「信念など持たなければ、もっと生きることは容易い。
 流れに上手く乗ることを覚えれば、傷つかずにすむ。
 そのことを知っていても、自分を曲げることは出来ない。そんなところがね」
 どう考えればいいのか、分からなかった。けれど、それは正しいのだろうと思う。
 ふと、秋霜が館で言った言葉が蘇る。あの時、秋霜は「情に流されつづけては、あなたもいずれ野分の君と同じだ」と、そう言ったのだ。
 何があったのかは分からない。けれど、その何かが、凪姫を常葉の社に閉じ込めたのだ。
 だから、自分を曲げることの出来ない凪姫は、社から逃げ出すしかなかった。
 暁姫は、唇を噛んだ。
 視線を落として、ふと、自分と大師の使っているもの以外に、もう一脚、湯のみが出ていることに気が付いた。誰か客人があったのだろうか、と思ったが、尋ねるのも不躾という気がして、それはやめた。
 ふと、外を見ると早、夕闇が落ちかけている。
「ああ、少し引き止め過ぎてしまったようだね」
 虚空大師が言った。
「運の悪いことに、今宵はまだ、月が新しい。明かりのある間に、早く戻りなさい」
 大師の言葉に、暁姫は暇を告げ、外に出た。
 目ざとく見つけた従者たちが、素早く馬を用立て、暁姫を急かす。暁姫は、見送りに出た大師に一礼し、松明を点した従者を先頭に、馬に乗り、来た道を戻り始めた。

 振り返ると、夕闇の中に、庵の明かりが見えた。
 明かりの中に、何か人影があるように見えたが、大師はまだ、庵の外にいる。
 ぎょっとしてもう一度庵を見ると、ただ、大師が庵の外に立っているだけで、不思議なことなど何も無かった。
 風も無いのに、庵の近くの木立が揺れたように見えたが、それこそ、逢う魔が時の見間違いだったのかもしれない。



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