四.

 背後に迫ってくる蹄の音に気づいたのは、虚空大師の庵を後にして、しばらく経ってからだった。早馬か、と思うが、背後は虚空大師の領地、馬は虚空大師の持っている一頭のみのはずだ。その更に向こうにある常葉の社は、変事の際にはをかがり火を焚く慣わしになっており、伝令のための馬などは持たないはずだった。
 振り返るが、近くに点っている松明の炎が、暗い夜道の見通しを妨げている。
 まばらな木立が続いているとはいえ、向こうが明かりを掲げていれば見えそうなものだが、ただ、蹄の音が近づいてくるだけだった。恐らくは、一頭のみ。
「あれは何でしょうか」
 従者も、馬を止めて振り返り、不安げに呟く。虚空大師だろうか、とも思うが、何かがおかしい気がした。同じことを感じたらしい従者が、片や弓、片や、剣を抜いた。
 暁姫は、弓を備えてこなかった自分を、かすかに呪い、そして、このような場合にもかかわらず、そのように感じた自分を恥じた。
 更に遠く、今度は、複数の明かりが見えた。速さから考えて、こちらも馬のようだ。
 違和感が、確信へと変わる。
「姫は先をお急ぎください」
 剣を抜いた従者が鋭く言う。
「それは……」
 できない、と言おうとしたが、従者に遮られる。
「姫に何かあれば、同じことです。どうか」
 護られるだけの自分は、このような場合、足手纏いにしかならないのだ、と悟る。従者が頷いて、火を移した松明を、暁姫に手渡した。暁姫は、視界を遮る笠をとり、松明を受け取る。
「すまない」
 そう言って、馬の腹を蹴る。馬が嘶き、周囲の風景が動き始めた。暁姫の使う馬は、気性が穏やかなもので駿馬ではなかったが、それでも、速駆けの速度はかなりのもので、従者の持つ明かりが、急激に遠ざかっていく。松明の炎が、風で煽られ、後ろに長く伸びる。
 地面を蹴る蹄の音と、馬の息遣いだけが聞こえるなかで、胸の中に、急速に不安が広がってゆく。
 馬は、背後から近づいてきた。虚空大師の領地から。何故、あのように複数の馬があの地に居たのか。あれが他の領地の馬だとしても、領民のほとんどは馬を持たず、農事には、牛を用いる。
 誰かが、何らかの目的を持って、馬をあの地に運び入れたのだ。
 昼間、暁姫が虚空大師の領地に足を踏み入れた際には、そのような気配は全く無かった。
 とはいえ、馬はその乗り手とともに隠されていたのかも知れず、暁姫が領地を訪れたときには、既に潜んでいたのかもしれない。
 この思考は無意味だ、と暁姫は思った。ただ、分かるのは何かおかしなことが起きているというだけだ。それよりも、虚空大師の安否が気になった。初めに近づいてきていた馬は、虚空大師のものなのかもしれない。そうであればいいが、と暁姫は願った。
 突然、背後からまた、馬が近づいてきていることに気づいた。
 単騎だ。従者のものではあるまい。振り返るが、その姿も、明かりも見えなかった。
 と、すると、初めに近づいてきた馬だろう。こちらも速駆けをしているにもかかわらず、これだけの距離を縮められるとは、相手は大変な駿馬のようだ。虚空大師の馬は、国長が下賜した年老いた馬で、このような速度を出せるとは到底思えなかった。
 突然、空を切る音が響き、それが聞きなれた矢の音だ、と気づく前に、暁姫の手に掲げられた松明に当たった。
 松明は、暁姫の手から落ち、道の脇に流れる小川に落ち、消える。
 周囲が闇に沈んだ。
 突然のことに驚いた馬が、闇雲に走り始める。虚を突かれ、暁姫は、あ、と思う間もなく、馬の背から転げ落ちていた。

 落下の衝撃で、一瞬の間気を失っていたらしい。背中を強く打ち、息を吸い込もうとすると胸の奥から、乾いた咳が出た。落ちたときに口の中を切ったのか、かすかに血の味がする。体のあちこちが痛いが、骨が折れているなどの大きな怪我は無さそうだ、と思った。
 打ち所もあるが、落ちたところが潅木の茂みだったことが幸いしたようだ。自分の馬の姿は見えなかった。
 潅木の中で起き上がろうとすると、周囲の枝がボキボキと折れる。
 暁姫の松明を射落とした馬は、最早すぐそこまで来ていた。
 この時には、恐慌状態を通り越し、却って冷静になっていた。明かりを持たずに馬を駆れるということは、相手はかなり夜目が利くのだろう。馬から落ちた、このような状態の彼女が見つからずに済むとは到底思えなかった。
 それに、あの弓の腕だ。相当な使い手であることは、想像に難くない。初めから松明を狙ったのか、彼女を狙ったのに松明に当たったのかは分からないが、あの距離で、この速度で、少なくとも狙いからさほど離れずに矢を当てることが出来たのだ。
 誰だろう、と思った。弓の腕が良いと知られているのは、暁姫が衛士以外では一番、そして衛士に数名、大変優れた射手がいたはずだ。しかし、と暁姫は考える。彼らは皆、館詰の者たちで、暁姫に矢を射掛けるとは考えられなかった。そのうちの一人が、今日従者としてついてきた衛士だ。
 徐々に、星明りの中で、周囲の光景が浮かび上がってくる。
 来た道を見ると、姿が見えなかったのもそのはず、漆黒の闇の塊のようなものが近づいてきているのが見える。馬が漆黒ならば、乗り手も漆黒の装束に身を固めていた。
 暁姫の姿を認めたらしく、馬が、僅かに速度を緩めた。
 これが最期か、と暁姫は体を堅くする。
 と、乗り手が、馬から地面に飛び降りる。飛び降りる身のこなしも軽ければ、地面への着地音も軽かった。
 漆黒の馬は、そのまま何処へか走り去る。
 乗り手は、手にもった弓をつがえることも無く、暁姫に歩み寄った。
「何者だ」
 声は、意外とはっきりと出た。こちらを見下ろす乗り手の背は、さほど高くはないようだった。体つきは装束に隠れて分からないが、どことなく華奢なようにも見える。
 乗り手は暁姫の問いには答えず間近まで近寄ると、暁姫を抱え上げた。
「何を────」
 声を上げようとすると、乗り手に口を塞がれた。
「死にたくなければ、大人しくしていろ」
 呟くようにそう言って、茂みの陰に身を潜める。声は、低くはあったが、暁姫と同じ年頃の少年のようだった。暁姫の姿が闇に浮かび上がらぬよう、その装束の中に暁姫を包み込む。
 その中で、暁姫はこれ以上無いほどに混乱していた。
 何がどうなれば、このようなことが起きるのだろう。
 そもそも、狙われる所以すら分からなかったが、それでもここまでの流れでは、そう考えるのが自然だった。けれどその当の追っ手は、暁姫を殺すつもりがあるのか無いのか、ひとまずは暁姫を、何かから隠そうとしているようだった。
 頭から包み込まれ、何も見えない。その中で、すぐ傍らに誰かの温もりを感じる。
 そういえば、と、暁姫は思った。この声は、誰かに似ている。誰だかは分からないが、どこか、聞き慣れたような声だった。
 どうしても分からないでいると、今度は複数の馬の蹄の音が近づいてくる。
 隣にいるその少年(であろうと、暁姫は思った)は、腕の力を強め、暁姫を引き寄せる。
 まるで、抱きしめられているような形になる。知りもしない相手の胸に顔をうずめ、暁姫は、夢、というよりも悪夢の中に居るような気がした。
 そして、血の匂いがする、と思う。相手の血ではない。怪我をしている様子は無かった。 今のところは、暁姫の血を流させる気も無いようだ。だが、この少年は、確実に血の匂いを纏っていた。
 一体誰の────────
 蹄の音が、近づいてくる。先ほど見た明かりの数は、五つであった。馬を五頭も、それもこのような駿馬を擁するのは一体誰だろう、と暁姫は考えた。
 それは、茂みの脇に隠れる二人には気づかず、そのまま走り去っていく。

 少年が動いたのは、馬が行過ぎてから、大分経ってからだった。
「動くのに支障はないな」
 覆面の奥から暁姫を見つめ、尋ねる。暁姫は頷いたが、その聞き方は尋ねるというよりは決め付ける、と言った方が正しいような気がした。
 少年は立ち上がると、覆面を緩め、指を咥えて甲高い指笛を鳴らす。
 やはり、この声はどこかで聞いたことがある。誰かに似ている。だが、それが誰なのかは見当がつかなかった。話し方の所為かもしれない。暁姫の周囲に、このような話し方をする人間は、一人もいなかった。
 暁姫の知っている男で少年といえなくも無い年齢なのは、秋霜一人だが、もちろん秋霜ではない。背の高さが全く違う。秋霜は華奢と思えるほどに痩せてはいたが、背が高かった。この少年は、暁姫よりも少し高いくらいだ。
 ぼんやりした頭で考えていると、また、蹄の音が近づいてくる。今度は単騎、見れば、道を戻ってくるのは少年の乗ってきた馬だ。よく訓練されているようだった。
 少年が手を伸ばし、暁姫を立ち上がらせる。
「これに乗っていけ。館の近くに着いたら、そのまま乗り捨てればいい。こいつは勝手に帰る」
 ひどくぶっきらぼうに、少年は言った。
「何故、このようなことをする?」
 言いながら、声が震えていることに気づいた。今更のように、恐怖が襲ってきたのだ。
「頼まれた」
 誰に、とは言わず、それ以上は何も話す気はないようだった。
「お前は何者だ?」
 暁姫が尋ねる。少年が黙ったままなので、答える気が無いのかと暁姫が思い始めた頃、ようやく少年が口を開いた。
「俺は、あんただ」
 言っていることの意味がわからない。
「……どういう意味だ」
 思わず、聞き返す。
「俺は、あんただよ。暁姫」
 少年は、繰り返した。
 暁姫を無理やり馬の上に押し上げ、少年は馬の尻をぴしゃりと叩いた。黒馬が滑らかに走り出す。
 その瞬間、暁姫は、覆面の奥の少年の瞳を、はっきりと見た。
 暁姫が後ろを見ると、少年の姿はあっという間に闇の中に溶けていく。
 姿の消えた辺りを、暁姫はずっと見つめていた。

 この星明りの下でも、見間違うはずもない。
 少年の瞳の色は、紅だった。




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