五.

「人を殺めることはどのような場合であっても、正しいことだとは私には思えないのです」

 あの時、彼女はそう言ったのだ。
 泣きながら────いや、違う。泣いていたのは、暁姫だ。
 彼女は、泣いてはいなかった。激してもいなかった。感情の起伏の豊かな彼女が、静かにそう告げたとき、それはもう、決まったことなのだと知った。
 その時の彼女の表情を思い出そうとして、必死に彼は記憶を紡いだ。
 今、思い出さなければそれは永久に失われてしまうだろう。
「後悔をすることはないか」
 と、彼は尋ねた。記憶の中の彼女が、頭を振る。
「いいえ」
 彼女は、暁姫よりも少し大人びた顔で、そう言った。
「私は後悔しません。今まで行ったこと、これから行うことの全てを後悔など致しません」
 彼女の手が、彼の手に重なった。細い指が、彼の手を握る。それは何時でも、彼の心を一番深いところで疼かせた。
 彼女の髪は肩までに削がれていたが、その時の彼女の顔は、彼の見た中で、一番美しいものだった。
 ああ、そうだ。
 彼女は、微笑んでいたのだ。
 その顔を、彼は生涯忘れないだろうと思った。そしてそれは、その通りだった。
「一つだけ、お願いしてもよろしいですか」
 記憶の中で、彼女が言った。

 彼は、頷いた。
「やれるだけのことは、やったよ」
 暗闇に向かって、呟く。
 これで、約束を果たせたのだろうか。
 その答えはわからないが、ただ、一つだけはっきりしていることがあった。
 彼は、彼の人生を悔いてはいない。それだけで充分だ。

 彼はその名を呼ぼうとしたが、ついに、その名が口にされることは無かった。


 暗闇の中を、黒馬は驚異的な速度で駆け抜けた。
 訳も分からずに、涙が零れる。袖口で涙を拭い、震える腕で、暁姫は馬の背にしがみついた。均整の取れた走り方をする馬の背から落ちるような心配はほとんど無かったが、心細さと、訳の分からない不安、そして見てはいけないものを見てしまった衝撃で、何か、生きているものに触れていたかった。寒さと、こみ上げてくる不安は耐えがたく彼女の心を侵してゆく。答えの無い問いが、いくつもいくつも、浮かんでは消える。何か気づかなくてはいけないことがあるような気がしたが、思考が纏まらず、筋道だった考え方は出来なかった。ただ、何故、と暁姫は思いつづけていた。

 黒馬は、何事も無く館の裏手に辿り着いた。
 館を見やると、裏口はもとより、その周囲にもいくつものかがり火が焚かれている。何か、あったようだ。自分にまつわることかとも思ったが、それにしては少し早すぎるような気がした。
 これ以上近づけば、この馬の姿が館の者に見られるかもしれない。
 今日、あの少年に出会ったことは、隠しとおさねばならない。かの少年が、月人であり、それが禁忌であるということ以上に、その存在に触れてしまったことの方が、禁じられたことであり、絶大な秘密を孕んでいるように思えた。
 誰にも悟られてはなるまい。例え、それが兄であろうとも。そう考えてから、ふと、暁姫は一番隠しておかねばならないのが兄だと思っていることに気づいた。自分の考えた理由が一瞬飲み込めず、次の瞬間、雪野の子を殺す判断を始めに下したのが兄であったからだ、と思い出した。
 以前のように、兄に全幅の信頼を置けなくなっている自分自身に愕然としながらも、その決意は、多少暁姫の気持ちに芯を通した。
 馬を止め、その背から降りる。降りる時になって、酷く右の肘から手首にかけてが痛むことに気づいた。落馬の際にくじいたようだ。左は擦り傷があるような気がしたが、動かすことには、特に支障は無さそうだった。弓を引くときに苦労しそうだ、と考えて、弓を再び持つことがあるだろうか、と、思った。
 痛みの少ない左手で、労うように馬を撫でると、馬は人間のように振り向き、そして、自らの向きを変えると悠然と闇の中に消えていった。
 半ば歩き方を忘れてしまったような足で、暁姫は残りの道を進み始めた。

 暁姫が館に近づいてみると、騒ぎは自分が予想していたよりも大きいようだった。
 騒々しいというよりも、何処か重苦しい雰囲気に支配されている。
 引きずるように歩く暁姫の姿を遠くから認めた衛士が、慌てて中に入り、松馬と、さらに二人の衛士、侍女を伴って走ってくる。
 帰ってきたことに安堵すると同時に、膝が崩れて、もう一歩も動けなかった。地面に膝をつき、かがり火に照らし出された自らの姿を見下ろす。衣は地面に落ちたときについたらしい土埃や、草の汁、鉤裂きなどでみすぼらしい姿になっていた。
 ふと、自分の肩口に、かすかだが変色した血の跡があることに気が付く。
 自分の血ではない。と、するとあの少年に触れられたときについたことになるが──
 酷く嫌な連想が、頭の中を次々に駆け巡り、吐き気を催すような感覚が、喉の奥から突き上がってくる。その感覚を飲み込むように、暁姫は口を閉じ、拳を握り締める。
 あの少年は、血の匂いを纏っていた。それは、あの場の錯覚ではなかったのだ。
「姫様、大丈夫ですか」
 松馬は、暁姫に近づくなり慌てふためいた様子でそう言った。
「大事は無いよ」
 うつむいたまま、食いしばった歯の間で暁姫は答えた。侍女が、手に運んできた衣を暁姫に被せようとし、ふと肩口についた血痕に気づいた様子で、手を止める。
「暁姫様、何処かお怪我を?」
 侍女の問いに、暁姫は頭を振った。
「大したことは無い。口の中を切ったのと、右手を少し挫いただけで────」
 そうは言ったものの、今となっては、右手が酷く痛むことに気づいていた。
 侍女が薬師を用意させます、と言いおいて、急いで館の中に駆け込んでいく。
 暁姫は血痕を隠すように、左手で、衣を掻き合わせた。
「先刻、姫様の馬だけが帰ってきたと聞いた時には肝を冷やしましたぞ。道中、笠も落ちていたと聞きまして────」
 自分を助け起こしながら言う松馬の声を、暁姫は何処か夢現の心持ちで聞いていた。

 衛士と松馬に助けられて館に入り、衣を替えられ、薬師に渡された薬湯を、渡されるがままに飲んだ。苦かったはずだが、ほとんど味は感じなかった。
 その後、右腕の捻挫を介抱されている間に、気を失うように眠ってしまったらしい。
 次に気づいたときは、夜が明けていた。まだ少し、ぼんやりしているような頭で、暁姫は天井の梁を眺め、ふと、隣に人のいることに気づいた。
 兄の、空木の君が暁姫を不安げな面持ちで見つめていた。
「兄上!」
 驚いて起き上がろうとし、ついた右腕に激痛が走った。そしてようやく、何故右腕が痛むのか、そして、昨夜に起こった一連の出来事を思い出す。
「構わないよ、そのままで」
 優しげな笑みを浮かべて兄はそう言ったが、そうもいかず、暁姫が起き上がろうと努力していると、腕を差し伸べ、身を起こす手伝いをしてくれた。
 室内には、兄の他誰も居ない。
人が居た形跡はあるのだが、今は席を外しているようだった。
「おかしなものだね、いつもと立場が反対だ」
 そう言って、ふふと兄は笑ったが、何か気がかりなことがある様子だった。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
 うつむいて、暁姫は言った。
 聞きたいことや、言いたいことはあったが、何から話せばいいのか分からなかった。
 部屋の外は、静かなようでいて、人が低く囁き交わしている声がする。
 ────そういえば、館の中でも何かあったようだった。
 その次に口を開いたのは、空木の君だった。
「夕べは、何があったんだい」
 暁姫は、顔を上げて、兄の顔を見る。その顔には、ただ、心配そうな色があるだけだ。
「分かりません」
 考えあぐねて、暁姫は言う。
 どこまでが話していいことなのか、どこからが口を噤むべきなのか。
「私は……」
 くちびるを噛んで、言葉を探る。その様子に、空木の君は暁姫の具合が悪いのだと思った様子で、そっとその背中をさすった。それもあながち間違いでもなく、兄の手の温もりに、重く沈んでいた心が、何処か開かれるような感じがした。
 やはり、兄には話しておくべきなのかもしれない、と思う。昨晩、あのようなことを考えたのは間違いだったのだ。兄ならば、全てを上手く納めてくれるのではないか。
 そのようなことを考えながら、それでも核心の言葉は、暁姫の喉に引っかかり、舌に乗ろうとはしなかった。
「夕べ、私は虚空大師のところに伺いました」
「ああ、そのようだね。松馬から聞いたよ」
 兄が、枕もとに置かれた水差しから柄杓に水を汲み、暁姫に手渡した。
 暁姫は黙って礼をし、柄杓から水を飲む。やがて心を決めて、言葉を選び出す。
「大師にお暇を申し上げて、その帰路の途中、後ろから馬に追われたようでした。衛士たちが先に行けというので、私は一人で馬を駆りました。その途中で、松明を落としてしまい、その拍子に落馬し、気を失ってしまったようです」
 嘘は無い。それゆえ、嘘の苦手な暁姫にも、すらすらと言えた。
「そうか」
 空木の君が、ゆっくりと頷く。
「その後は、どうしたんだい。歩いて館まで帰ってきたのかい」
 思ってもみない問いだった。
「それは────」
 何か言わなければ、と、とりあえず言葉を口にする。兄の顔を見ても、答えはわからない。ただ、答えないわけには行かないことだけは分かっていた。
「……覚えておりません。気が付いたときには、館の傍まで来ておりました」
 焦りが言葉に出ないように、ゆっくりと言ったが、声が震えているような気がした。
 ただ、こう答えておけば、それ以上に聞きようはあるまいと、暁姫は思った。
 兄は、微笑んで頷く。が、ふと心配そうな表情になり、
「そういえば、衣に血がついていたと笹舟が言っていたよ」
 と、尋ねた。笹舟とは、昨日、松馬とともにいた侍女の名である。空木の君は、そういえば、館で働くものの名を全て、覚えているのだ。何となく、そんなことを思い出す。
「何処か怪我をしたのかい」
 血。ああ、そうだ、血の匂いだ。心の中に不安が沸き起こり、そのまま兄に全てを明かしたくなる。その上で、大丈夫だ、と言って欲しいのだ。何も心配することは無いと。それは心からの望みであったが、口にしたのは昨夜、笹舟に対していった言葉と同じだった。
「落馬した際に、口の中を切ったのと、右手を挫いただけです。さほどのことではありません」
 掛布の上で、手を握り締める。嘘などつかなければ良かったのかもしれない。そうすれば、求めている答えが直ぐに得られ、そして、このような不安など、全て無くなったのかもしれない。けれど、つき始めた嘘はつき通さねばならない。それも分かっていた。
 空木の君が、暁姫の握り締められた手を、そっと握る。
「色々、あったのだからね。お前が不安になるのも仕方ないよ」
 顔を上げると、兄がいつものように、優しく微笑んでいた。暁姫の視界が霞む。空木の君は、衣の袖口で、涙が零れ落ちる前に暁姫の目元を拭った。
 空木の君は、暫く妹の頭を撫でていたが、暫くして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、館の裏手に、不審な馬の足跡があったのだよ。一頭だけのようだったが、お前はもちろん、何も知らないのだね」
 暁姫は、あ、と声を上げそうになった。それが、あの黒馬であることは明らかだ。
顔色まで隠しきれたかどうか、暁姫は、小さく頭を振る。そうか、と兄が頷いた。その顔に不審な色は無いようだった。何か言わなければ、と、暁姫は口を開いた。
「兄上」
「何だろうか」
 兄が、答える。
「昨日────この館で、何があったのですか」
 実際、気にかかっていることではあった。同時に、何かがあったのは確かなのに、何故兄が今まで何も言わないのだろうと訝しんでもいた。
「……それは、もう少しお前が元気になってから話そうと思っていたことだけど、話したほうがいいのかもしれないね」
 柔和な表情を少し曇らせて、空木の君が言う。
 次に、兄が口にしたのは、思いもよらない言葉だった。
「昨日、父上が何者かに毒を盛られたのだ」




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