六.

 空木の君の言葉に、暁姫は色を失った。
 蒼白になった暁姫の顔を見つめながら、空木の君は言葉を続ける。
「時刻は昨日の夕刻、まだ日の落ちる前だった。かかる事態に、私は常葉と虚空大師の元に、馬を遣わせたのだが────」
「……父上は」
 彼の言葉を遮り、しぼり出すように、暁姫が言った。
「父上は、ご無事なのですか」
 震える声は、消え入るようだ。無理も無い、と、空木の君は思う。このような事態は、誰も想像だにしていないだろう。都のような場所なればともかく、この地に、このような時に。出来る限り少女を安心させるように、彼はゆっくりと頷いた。
「昨日は苦しんでおられたが、薬師の処方が良かったのだろうね。今は落ち着いて、眠っておられるよ」
 その言葉に、暁姫は目に見えて安堵したようだった。
 空木の君は頷き、ただ、と、言葉を続けた。
「薬師の話では、未だ予断は許さないという話だ」
 暁姫はかすかに頷き、その目に再び涙が浮かぶ。常から多感で、繊細な少女の心のうちは、彼女自身がどんなに抑えようとしても、見る者が見れば、隠せるようなものではない。
 比べて自分はどうだろう。酷く鈍くなってしまったものだ、と、空木の君は考えた。
 それでも、暁姫の姿が見えず、という報を受けた時、そして、馬だけが戻って来た時。
 そのときには─────と考えて、空木の君は思考を打ち切った。
 暁姫は、今、無事な姿で目の前に居る。そのことが、かけがえのないことだ。
「……そのようなときに、私は……」
 うつむいて、暁姫が呟くように言った。握られた拳が白い。
 父の大事に、留守にしていた自分を責めているのだろう。
「お前のせいではないよ」
 優しくその頭を撫でて、空木の君は言った。
 少女の滑らかな髪が、彼の指に絡んだ。そのまま、その髪を梳くように、空木の君は指を滑らせる。暁姫が、睫毛を伏せる。溜まった涙が、光の滴のように零れた。
 少女の姿は、彼自身の記憶の中にある凪姫の姿によく似ている。
 彼が幼い頃、彼の母も健在であった時分だ。その頃は、未だ常葉の姫巫女ではなかった凪姫は、この館に居り、その姿を見かけることもあった。暁姫とは違って、あまり出歩くことの無かった凪姫は、その姿よりも彼女の奏でる楽のほうが、彼の心には残っている。
 ─────一つの姿を除いては。
(────似ている、だが、同じではない)
 凪姫の方が強い女人であったのだろうと思う。暁姫は、その行動とは裏腹に、何処か脆く、弱い。その弱さが、彼にはひどく愛しいのだ。
 しかし、空木の君は再び口を開いた。これから自分の話すことが、恐らくは、彼女を傷つけ、悲しませるであろうことを知ってはいたが。
「先ほども言ったが、私は昨夜、虚空大師の元に使いをやった」
 繰り返した言葉に、何かに気づいたように暁姫が顔を上げた。
 暁姫が口を開く。
「馬…ですか」
「ああ」
 暁姫の問いに、空木の君は頷いた。
「五騎ほどね。常葉を回ってからそちらに向かったようだから、お前とは行き会わなかったようだが」
 少女が、目を見開く。その顔を見つめて、空木の君は続けた。
「……お前には辛い話になろうが、気を落ち着けて聞いて欲しい。虚空大師の元から帰ってきた使者の話によると、虚空大師は、庵で亡くなられていたそうだ」

 自分の声が、なぜ、と、呟くのを暁姫は聞いた。あまりに細い声で、まるで、他人のもののように思える。兄が頷いて、言葉を継いだ。
「使者たちが庵に着いたとき、庵には、虚空大師と、黒装束の男が居たそうだ。虚空大師は、その男に殺されたようだ、と、使者たちは言っている」
 自分の感覚が一切麻痺してしまったようだった。
 自分自身は、井戸の底に突き落とされたようで、全てはその外で起きているように、遠い。それでいながら、外側の自分はひどく冷静で、兄の言葉に頷き返していた。
「黒装束の男……」
 思い当たるのは、言うまでも無くあの少年だった。
「お前たちが追われた馬というのは、どの馬だったか分からないが、使者達はその男を追ったそうだ。その男は、庵からこちらの方角に馬を走らせ、彼らはそれを追った。その途中で、お前の従者たちが、やはり惨殺されていたそうだ。そこにお前の笠が落ちていたと、報告を受けた」
 兄の言葉を聞きながら、暁姫は、あの少年の纏っていた血の匂いを思い出していた。
 あの血の匂いは、それでは─────
 目の前が暗くなり、今にも倒れそうだった。実際に倒れかけたのかもしれない。
 不意に、温かい大きな手に支えられる。
 兄だ。見上げると、兄が憂いを含んだ表情で暁姫を見つめていた。
「……お前が無事で良かった」
 普段の、柔和な声とは全く違う、何か切実な声だった。
 兄上、と暁姫は呟くように言う。空木の君は一瞬、抱き寄せるように暁姫の肩を両手で包み、暫く彼女を見つめると、哀しげに微笑んで、立ち上がった。
「お前は、もう暫く休んでいなさい」
 そう言い置いて、兄は立ち去り、後には暁姫だけが残された。


 暁姫の寝所から充分離れてから、空木の君は今まで堪えていた咳を吐き出した。
 口の中に、血の味が広がるのが分かる。
 咳の酷さに体を支えきれず、柱に手をつき、回廊の床にくずおれる。
 初めにもう長くない、と言われてどのくらい経っただろう。
 死の影は常に彼につきまとい、そして、彼の立場が、それを決して忘れさせなかった。
 周囲は、常に彼の命を短いものとして扱い、彼の死後のことを決めている。
 彼は、それに抗い、二十余年生きてきた。
 しかし、どこかで、それももう限界だという声がする。
 彼は頭を振って、口元を強く拭った。
「若君」
 不意に、高欄の影から、声がする。
「如何いたしますか」
 何を、というのは聞かずとも知れた。
「今は何も」
 ごく低い声で呟く。
「御意」
 声を聞いて、空木の君は立ち上がった。
 ふと気配を感じてそちらを見やると、大宰が息子、秋霜が回廊の角から彼を見ていた。
「手をお貸し致しましょうか」
 秋霜の冷たい声音が言った。彼は、微笑む。
「ありがとう。いや、もう大丈夫だ」
 秋霜が、こちらに向かって慎重な足取りで歩いてくる。
「……昨日、常葉と虚空大師の庵に伝令を出されたのは、空木の君だそうですね」
 三歩ほどの距離まで近づいてから、秋霜がそう言った。
「ああ、そうだよ」
 どうということも無く、空木の君は答える。
「あのような変事の折は、大宰が全てを取り仕切ることになっているはず。若君が直接指揮なさる必要は無いと思いますが」
 淡々とした調子で、秋霜が言う。その瞳は、こちらの動きを一つ一つ見据えているようだ。扱いづらい男だ、と、空木の君は思う。
「大宰の姿が丁度見えなかったものでね。ことは一刻を急ぐと、私が手配させてもらったよ」
 心とは全く裏腹に、柔らかい笑みを浮かべる。
「若君の直属の配下を、ですか?」
 秋霜が、間伐入れずに切り返す。本来、衛士は武官長早山、ひいては武官と文官を束ねる大宰の柊白の配下にあり、世継の空木の君とて彼らを介さずに、衛士を動かすことは出来ない。ただ、国長や世継は常に彼ら自身の警護の者が数名居り、それらは早山や柊白を経ずとも動かすことが出来る。直属の配下とは、そういう者達のことであった。
「ああ。それ以外の者を動かしては、それこそ越権行為だろう? 大宰に怒られてしまう」
 説得力のある声で、空木の君は言った。
「左様ですか」
 秋霜が、すっと目を細める。聡い男だが、それを隠すほどには賢明ではない。そこがこの男の弱点だ、と、空木の君は考える。
「それでは、失礼するよ」
「くれぐれもご自重くださいませ。あなたの体が悪くなれば、暁姫が悲しまれますゆえ」
 歩き出した空木の君へすれ違いざまに、秋霜が言う。
「気をつけよう」
 そう言ってから、空木の君はふと足を止めて、付け加えた。
「ところで、君や君の父上も気をつけたほうがいい」
 秋霜がこちらを睨みつけたのは、振り返らずとも分かった。
「この度のことで一番得をしそうなのは、どうもそちらのようだから」
「おっしゃる意味がわかりかねます」
 はき捨てるような秋霜の言葉に、空木の君は微笑み、その場を後にした。


 泣くことが出来れば、いっそのこと楽だったかもしれない。
 兄の立ち去った寝所の中で、暁姫は、座ったまま、ただ目を見開いていた。
 痛みでも、悲しみでもなく、心が無くなってしまったようだ。父が毒を盛られたと聞いたときの動揺や、それに伴う後悔すら、今は感じない。従者が殺されたという話を聞いても、心が動かない自分を、理性のどこかが責めている。しかし、それよりも、虚空大師が、今、既にいないということが分からない。
 それでいながら、もうずっと前からわかっていたことのような気もしていた。
 暗闇の中で、馬を駆っていたとき。いや、大師の庵を後にした、あの時から。
 ────────少年の纏っていた血の匂いが、強烈に蘇った。
 あの少年が、と暁姫は考える。感情の働かなくなった心の中で、鈍い理性だけが、途切れ途切れに動いている。
 虚空大師の命を奪ったのは、あの少年なのか。兄は、そう言った。昨日の不可思議な追走劇は、それで確かに、全て説明がつく。ただ、少年の行動を除いては。
「俺は、あんただ」
 少年は、そう言った。彼女が知らない何かを、あの少年は知っている。
 何をなすべきかは、分かっていた。

 あの少年に会わなければならない。





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