七. 齢二十を過ぎた世継に妻がいないというのもおかしな話で、空木の君には昔、妻が有った。名を蛍姫といい、器量はそこそこだったが、体は丈夫で、気性の朗らかな姫であった。 空木の君と蛍姫は、それなりに仲の良い夫婦であったし、蛍姫の体が丈夫であるということは、体の強い子が望めるということでもあった。そも、彼女の血筋は体の強いことで知られていた。 蛍姫は、望まれていたとおりに婚儀の半年後には懐妊し、その後も順調に過ごしていたが、臨月を迎えたところで、事態は急変した。臨月のある夜、蛍姫が、急に苦しみだしたということだ。子は流れ、その後まもなく、蛍姫も亡くなった。 流れた子は、男子であった。それが五年前のことである。 その後、空木の君は妻を娶ることなく、今日まで至っている。 国長の居ない本殿には、大宰柊白、武官長の早山、文官長の東雲が座していた。空木の君に関しては、体調が優れぬゆえ、あとで参るという話であった。 国中では────ということは、館の中では、ということだが、月人の出現と、国長が毒を盛られたことに関して、弓月の君の故事が囁かれている。弓月の君は月人に毒殺を図られ、それにより、月人を滅ぼした。再びの月人の出現は、月人の怨念の顕現、そして、国長に毒が盛られることの予兆であったのだ、と。そしてまた、それは全て、常葉の姫巫女不在によるものではないか、と、そのようにも囁かれていた。 「馬鹿な」 言ったのは、柊白だ。 「毒とは必ず誰かに盛られたもの。月人の怨念など、そのような戯言を信ずるべくも無い」 彼としては珍しく、何かにいらだったような口調だった。 その姿に、早山が鼻を鳴らす。 「問題は、その誰かとやらが何者であるのか、ということですよ」 淡々とした口調で、東雲が言う。 座している一同は皆、昨夜からの一連の事件により、何所か憔悴したような表情を見せている。ここまでの調べで、国長は夕餉の前の刻、一人で酒を召していたときに毒を盛られたという。酒を運んだものもはっきりせず、事態は奇怪な様相を呈していた。 「は、身に覚えがあるのはそなたではないのか。大宰殿」 三人の中では一番元気な早山が、嘲るように言った。人の口の端にこそ表立って上らぬものの、弓月の君の故事と同じく、館に居る者には、ある共通した考えがあった。 それは、毒を盛ったのは大宰の柊白ではないのか、ということだ。 自由に薬師寮に入ることが出来、かつ、国長が死んで最も得をすると目される人物、即ち、大宰の柊白である。国長亡き後は病身の空木の君を傀儡とし、子の無い空木の君が死ねば、息子の秋霜を国長の地位に据え、弓月の国を我が物とする。柊白の狙いはそこにあるのではないかと、そう考えられているのだ。そもそも、空木の君の妻であった蛍姫の頓死の時から、柊白にはそのような黒い噂がつきまとっていた。 柊白自身も、自分に向けられている疑いは十分承知している様子で、早山を剣呑な眼差しで見やる。 「はて。もしそうだとして、私が虚空大師を殺める必要が全く思い当たりませんな。 言いがかりは止していただきたい」 普段の柊白ならば、言葉に一捻りも二捻りも加えるところだが、今回ばかりは、そのような余裕は感じられない。 「国長に毒を盛った者と、虚空大師を殺めた者が同じとは限るまいて」 その様子に、常から柊白を嫌っている早山は、ここぞとばかりに言い募った。 「それは如何でしょう」 東雲が、静かに口を挟んだ。 「この二つが異なるとすれば、偶然が過ぎるとは思いませんか。やはりここは、同じ者が仕組んだか、そうでないとしても何か関わりがあるように、私には思われますが」 「ならば、そなたには何か考えがあるというのか」 腰を折られた早山が吐き捨てる。 「いえ」 「されば……」 黙っていろ、と言いかけた早山を、東雲が遮って、言った。 「私がことに解せぬのは、虚空大師が殺されねばならなかった理由です」 「ほう」 自分から話が離れたことに少し安堵したか、柊白が頷いた。 「このように申してはなんですが、国長に毒を盛った下手人やその理由などは、幾とおりにも考えがつきます。ですが、虚空大師を殺める理由というものが、私には見当がつかないのです」 腕を組み、考え考え、東雲が言う。 「黒装束の男と、若君の使いが申しておりましたね」 「そのようですな」 東雲の言葉に、柊白が返した。 「……その者の身元から探ってみるべきかと。また、暁姫様が─────」 言いかけて、東雲は口を噤んだ。本殿の外から、足音が近づいてきたためだ。 一同は先触れのあった空木の君を予期していたが、果たして、現れたのは暁姫だった。 「兄君の代理でいらしたのかな、暁姫殿」 若干取り繕ったように、柊白が言った。 それでも、いつもの調子は取り戻しきれては居ない。 「いえ。お尋ねしたい義がございまして、こちらに参りました」 戸口に跪いて、暁姫が言う。国長の姫とはいえ、この大宰、文官長、武官長の三人よりは扱いとしては身分が低い。 「帰られよ。今は大事な話の最中じゃ」 早山は暁姫に対していつもの通り、いらいらとした口調だ。 「早山殿。少なくとも、姫は国長に毒を盛った下手人ではありませんよ」 たしなめたのは、東雲だった。 「こちらとしても暁姫様にお聞きしたいことがあったのです。 丁度よろしいではございませんか」 東雲の怜悧な顔が、暁姫を見て頷く。 「ありがとうございます」 暁姫が言った。東雲は、おやと思う。常の暁姫ならば、既にこの時点で、こと柊白と早山に対してだが、何所か怯んでいるはずだった。しかし、今の彼女からは、ただ、表層の理知的な動きしか見て取れない。血の気の薄い顔は仮面のように表情が無く、それは不思議に彼女を、空木の君に似せて見せた。 「それで、お尋ねになりたいこととは」 東雲が、暁姫に問うた。 「今朝、虚空大師のご遺体がこちらに運ばれてきたと聞き及びました。ご検分なされたのは、どなたでしょうか」 「私と、早山殿ですよ」 東雲が答える。 「大師がお亡くなりになられた原因は」 「おや、父君の大事に、姫は大師のことばかりお聞きになられる。 姫は、国長殿よりも大師殿の方が大事でいらっしゃるようですな」 暁姫の問いに水を差したのは、早山だった。 「父上は、回復に向かっておられる様子。私が今気にかかっているのは、亡くなられた虚空大師のことです。何の不思議がありましょう」 澱みの無い口調で、暁姫が返す。早山は、鼻を鳴らして口を噤んだ。 「胸の傷ですよ。暁姫様。もしも、お会いになりたければ、今は神前の間に居られますが」 東雲が言う。 「分かりました。後で伺います」 唇を引き結んで、暁姫が答えた。 その顔は泣き出すかのように歪んで見えたが、直ぐに元の無表情に戻った。 「何故、そのようなことをお聞きになられるのです」 礼の仕草で顔の見えない暁姫に、東雲が問う。 「いえ」 とだけ答えて、暁姫は顔を上げ、真っ直ぐに東雲を見返した。 その表情にこれ以上の答えを望めないのは明らかで、東雲は問い方を変える。 「暁姫様、昨夜のことですが」 「はい」 「虚空大師の処に参られたのでしたね」 ゆっくりと、東雲は言った。 「はい」 暁姫が頷く。 「大師の庵においてでも、往路でも復路でも構いません。何か、変わったことなどはございませんでしたか」 東雲の問いに、暁姫は瞬きを一度する間だけの間を取り、口を開いた。 「変わったことといえば、帰り道で馬に追いかけられたような気がしただけです」 「ような気、とは」 「帰ってきてみれば、馬とは兄上の出した伝令だった様子。途中、落馬し気を失っている間に追い抜かれたようで、直接会うことは御座いませんでしたが」 すらすらと言い過ぎる、と、東雲は思った。しかし、それをもって嘘とは出来ない。 「あなたの従者の殺害された件については、どう思われますか」 一瞬、暁姫が言葉に詰まった。目を伏せ、唇を噛む。 「あの時は」 暁姫が言った。 「従者が先にいけと申したので、その言葉に従いました。今となっては、恥じております」 「何故でしょうか」 「残っていれば、彼らは死なずとも済んだのかもしれません。 何より、何が起きたのか分からないことが恥です」 そう言い切って、再び暁姫は東雲を見据える。その瞳にふと、東雲はかつて、同じものを見たことがあるように思った。東雲は暁姫に頷き、その顔にぎこちない笑みを浮かべた。 「お辛いことをお聞きして申し訳ありませんでした」 「それでは、下がらせて頂きます」 東雲の言葉に、暁姫は跪いたまま一礼し、立ち上がった。 「どう、思われますかな」 暁姫の立ち去った後、最初に口を開いたのは柊白だった。 「さあ。嘘をついているかどうかはわかりませんが、何か隠していることがあるように思われます」 東雲が逡巡しながら答える。 「詮議すれば良いのじゃ。相手は小娘、簡単に口を割るわ」 「……一体暁姫に、何を隠すことがあるというのでしょう」 早山の言葉に、思いに沈みながら東雲が言った。 「分からんぞ。意外や意外、ひょっとするかもしれん」 「まさか、貴方は大師や衛士を殺めたのが、暁姫だ、などと言い出すおつもりか」 自分の考えに悦にいったような表情を見せる早山を冷たく見やり、柊白が言う。 「暁姫は、少なくとも虚空大師を慕っていたのですぞ」 「だからこそ、じゃよ」 早山が言う。 「女子の考えることは分からんぞ」 さすがに嫌悪の表情を浮かべて、東雲が早山を見た。 「虚空大師と暁姫様は、親子ほどの年の差ですよ。いえ、実際、お父上の灯月の君の方が、虚空大師よりもお若いくらいです」 「さて、どうじゃろうの。暁姫は、例の姫に良く似ておる。 それはよく知っておるだろう、東雲よ」 「私には、わかりません」 探るような早山の言い方に、東雲は目を伏せた。 「それに、暁姫殿に人を殺めるような度胸があるとは、到底思えませんな」 そう言ったのは、柊白だった。例の、里に月人が現れた時のことを言っているのだ。 「は、舅殿は嫁に対しては甘いようだな」 「いずれにせよ」 早山の言葉を遮り、少々強引な調子で東雲が言う。 「今はまだ、何もわかってはおりません。今しばらくの調べが必要です」 東雲の言葉どおり、虚空大師の遺体は神前の間に安置されていた。客死とはいえ、やはりこの国における社会的な地位は高く、弓月の血を引く者に準じる扱いだ。衣はまだ死に装束には替えられておらず、それゆえ、容易にその身についた傷を見て取ることが出来た。 左肩から胸にかけての一閃の太刀傷、それだけだ。虚空大師を殺めたものの手際は、大師にあまり武術の心得が無かったことをかんがみても、実に鮮やかなものだった。 目を閉じた虚空大師の顔は、このような死に方をしたものとは考えられぬほど穏やかで、或いは微笑んでいるようにすら、見える。 虚空大師のほかに暁姫の従者、そして、虚空大師の世話をしていた老婆も殺されたらしく、中庭には、筵をかけられた三つの遺体があった。 虚空大師の遺体を前にして、暁姫の心は静かだった。 感情は止まったまま、もう二度と動かないのかもしれない。そんな気がした。 昨夜の様々な出来事はもちろんのこと、今朝の兄の来訪ですら、はるか隔たった出来事のように思える。ただ、今でも理解できているというわけではなかった。 虚空大師が、─────今、ここに横たわっているこの亡骸が、昨日、暁姫と言葉を交わした人物である、というその事実を。 「爺」 暁姫は、自分の背後に控える松馬に、振り向かずに声をかける。 「何で御座いましょうか、姫様」 松馬の表情は見えないが、その声は沈んでいる。その松馬に、暁姫は問うた。 「この国で、何かを隠せる場所とは、何所だと思う」 「何かを隠せる場所……でございますか」 松馬が答える。 「どのようなものを」 「どのようなものでも、だ」 問い返した松馬に答えながら、暁姫は考える。 あの少年は、この国にいる。月人の生きては行けぬはずのこの国で、何処にか隠されている。そして、少年は、この国で育ったに相違ない。 かの少年は、この国の夜を知っている。それが何よりの証拠だ。 「木を隠すならば、森の中、とは申しますが」 松馬が言う。 「人を隠すならば、人が行くことの無い場所と思います」 松馬の言葉に、暁姫は振り返った。松馬の、うつむいた顔は、戸口よりの光を背にして、よくは分からない。ただ、その声に、何かを諦めたような響きがあるように思えた。 「松馬」 再度、暁姫のかけた声に、松馬は顔を上げた。 「姫様」 松馬は言った。その顔にあるのが、覚悟なのか諦めなのか、暁姫には分からなかった。 「私は、……この爺は、これから何があろうとも姫様にお味方致します」 暁姫は、松馬の年老いた顔を見つめた。長くこの館に仕え、その昔は凪姫の養育も勤めたと聞いた。思えば、この館において、暁姫の味方とは、兄と松馬しかいなかったのかもしれない。そして、今は、松馬だけだ。 「信じている」 暁姫は頷いた。 暁姫の後姿を見送り、神前の間には、松馬と虚空大師の亡骸だけになる。 「血は……争えない、ということでしょうか」 血痕も新しい虚空大師の亡骸をみやり、松馬はぽつりと呟いた。 その言葉を聞いたのは、物言わぬ死者たちだけだ。 部屋の外は相も変わらず、麗らかな陽光が降り注いでいる。 |