九. 社の裏手にはかがり火のための大きな石楼があり、その石楼の中から、巧妙に隠された階段が下へと続いていた。暁姫が十六夜に連れて行かれたのは、その下だった。 石造りの部屋の、壁に作りつけられた石造りの長いすに座らされ、暁姫は、自分の心が、穏やかとも言えるほどに静まっているのを感じていた。傍に居るのは、つい先ほど自分が殺そうした相手、今でさえ、正体のはっきりしない存在であるにも関わらず。 悲しみはまだ心を占め、それが本当に消えるには、あと、どのくらいの時を必要とするのだろう、と思う。しかし、ただ一つ違うのは、自分が既に、虚空大師の死を受け入れていることだった。認める気になったわけでも、諦めがついたわけでもない。ただ、そこにある変えることの出来ない事実に、ようやく気づいたのだ。 虚空大師を殺めたのが誰であるにせよ、虚空大師が死んだという事実は変わらない。 暁姫が唯一、本当の意味で心を通わせることの出来た相手であり、彼を失った今、これから自分がどのように生きてゆけばよいのか、見当もつかない。しかし、虚空大師が彼女が生き延びることを望んでいたとすれば、彼女は、生きなければならない。この先、何があっても。 自分がひどく無防備で、頼りない。 兄のことを思い出す。何故、兄を信じられないのかわからない。自分が信じていないとすれば、それは、兄との意見の相違であり、判断に対する不審だ。そのはずだった。 しかし、何かが心を捕らえている。自由にさせてくれない。朝の兄の様子か、それとも、他の何かなのか。 兄の伝令が殺したとすれば、それは、兄が殺したということだ。虚空大師を殺す命令を下し、暁姫の命も狙った。それが真実かどうかは分からないが、少なくとも、大師が今際の際に、そう判断した、ということだ。真実だとすれば、────そんなことは考えたくなかったが、もしそれが真実だとすれば、兄が虚空大師を手にかけたのは何故なのだろうか。そして、彼女の命をも。 『お前が無事でよかった』 兄の声が蘇った。例え他の何が嘘でも、その言葉を、その声音を疑うことは出来なかった。涙がまた、頬を伝い落ちる。 「……よく泣く奴だな」 黙って暁姫を見ていた十六夜が言った。日の光に弱い、などといっていたくせに、部屋の中に入っても覆面を取る様子は無かった。 「お前に何がわかる」 むっとしたというほどの心の動きは無かったが、暁姫はそう言っていた。 衣の袖で、顔を拭う。頭が痛い。喉もひどく乾いていた。 「昨日も泣いていた」 突然そう言った十六夜の声に、暁姫は顔を上げると、目の前に水の入った素焼きの茶碗を突き出された。戸惑って十六夜を見ると、少年はまたぶっきらぼうに、 「要らないのか」 と言う。頷いて、暁姫は被ったままだった頭巾を外し、茶碗を受け取る。その様子を、少年は黙ったまま見つめていた。 水は、ごく普通の井戸水のようだが、飲み込むと体の隅々にまで染み込むように感じられる。頭痛も、若干ましになったようだった。水を飲み干しても、まだ十六夜がこちらを見ているので、何だか決まりが悪い。ありがとう、と、礼を言って茶碗を返すと、ようやく気づいたように、少年は目を逸らした。茶碗を受け取り、それを部屋の隅の水がめの上に置くと、自分は部屋の入口の床の上に腰を降ろす。 「昨日……」 十六夜の先ほどの言葉を思い出して、暁姫は呟いた。 昨日、自分は泣いていたのだろうか。 あの夜道で、十六夜に出会ったときに。 「庵で、大師と話しながら泣いていただろう」 十六夜の言葉に驚いて、暁姫は十六夜を見る。同時に、あの湯呑みを思い出した。 「お前はあの時────」 「あんたが突然来たから、納戸にな」 何となくばつの悪そうな口調で、十六夜が言った。 考えてみれば、そうでなければ大師の死に目に間に合うはずも無い。 同時に、あの場に十六夜が居たのだと思うと、何故だか気恥ずかしい。少なくとも十六夜に聞かれて拙いようなことを話していたわけではないが。 「私は……」 と言って、何を続ければいいのかわからない。 「何故、大師のところにいたんだ」 矛先を十六夜に向け、多少責めるような口調で、暁姫は言う。 「牛の薬を貰って来いと言われた」 十六夜が、ぼそぼそと言った。暁姫が訪れたときに、虚空大師が調合していた薬のことだろう。ここに住んで居る誰かに、という意味だろうか。 ここは、不思議な場所だった。全てが石で作られた部屋の中に木製の寝台と、陶器の水がめ、油の入った灯皿などが置かれており、少年はここで暮らしているのだろうか、と思う。壁の一つには、窓が開いており、その向こうには海が見えた。この部屋は、岬の崖の傍にあるらしい。窓のある壁はとても厚く、海側と部屋側の二箇所に木の扉が二つついている。それで、海風や雨を防ぐのだろうが、冬場には身に堪えそうな部屋だった。 明かりは窓からも入るが、どういう仕掛けか、天井からも光の刺し込む仕組みになっている。見たことの無い仕掛けに、ここを作ったのは、弓月の民ではないのではないかと、そんな疑問が頭を掠めた。 「……常葉は、昔月人の首領の住む館だったそうだ」 あたりの光景を不思議そうにうかがっている暁姫に気づいたか、十六夜が言った。 「ここも、社の本殿も、弓月の君の時代より以前からある、月人の遺物だという話だ。戦いで、最後まで落ちなかったのがこの場所らしい」 「怨念が強そうだな」 十六夜の説明に、暁姫が呟く。 「だからこそ、鎮守の杜が置かれているんだろう」 十六夜が、暁姫の言葉に答えて言った。 「だが、怨念など存在するかどうか。ここに十五年暮らしているが、幽霊にも怨霊にも、ついぞお目にかかったことが無い」 月人の少年がそのようなことを言うのは、奇妙な気がした。そう思ったのが伝わったのか、十六夜は、こちらを見て目を細めた。怒ったのか笑ったのかは分からない。ただ、十六夜は暁姫を見て、どことなくなげやりな調子で呟いた。 「……いや。俺が生まれたのが、怨念の証かもしれないが」 そう言って、暁姫から目を逸らす。 「十六夜」 十六夜の言葉に、暁姫はその名を呼んだ。十六夜が、目線を暁姫に戻す。 「お前は、誰だ?」 十六夜の紅い瞳を見つめて、暁姫は言った。 「昨夜は私だといい、そして、姫巫女の居ない常葉の地に、十五年の長きに渡って暮らしているという。馬や弓を使い、私の名や、この国の成り立ちを知っている。虚空大師が名付け親だという。大師の死を看取ったのもお前だ。 ─────そして、私に名を告げながら、今でも顔を見せようとしない」 言葉を発するたびに、急に、少年の、この国での立場が浮き彫りになっていくように思える。 この少年は、誰かに護られていたのだ。誰も訪れないこの地で、その存在を知られないように。それでも、知っている人間はいた。虚空大師がその一人、松馬も恐らくこれを知っている。そうなると、国長である父が、その存在を知らないとは考えられなかった。 そして、誰が十六夜を、この地に匿ったのか。 その答えははっきりしている気がした。 しかし、それでも十六夜が何者であるのか、という答えだけはわからない。 「お前は、一体誰だ」 もう一度、暁姫は言った。十六夜が、真っ直ぐに暁姫の瞳を見つめ返す。 「俺は」 少年が口を開いた。 十六夜の声音が少し、変わった気がした。 「あんたは知らなかっただろうが、俺はあんたを知っていた。幼い頃から、ずっと」 十六夜はそう言って、目を伏せた。白い瞼が、その瞳に被さる。 「暁姫」 名を呼ぶ声は深かった。その声は、暁姫の胸のうちに、ゆっくりと、滑らかに傷をつけながら沈み込んでいく。痛みではないが、どこか息苦しいような、奇妙な感覚だった。 「あんたは俺の正体を知ってはいけない」 十六夜が目を開けて、立ち上がる。今まで下にあった目線が、急に上からのものになる。 「あんたは、ここにくるべきじゃなかったし、そもそも俺と出会うべきじゃなかった。俺の正体を知ってはいけないし、俺の顔も見てはいけない」 覆面の奥から暁姫の瞳を見つめて、十六夜が言った。 「何故……」 暁姫が、かすかに呟く。 「会ってみてわかった。あんたはこれに耐えられる人間じゃない」 十六夜が、言い切る。 「耐えられない?」 その言い草に腹が立った。 「私はそんなに弱い人間ではない」 暁姫は立ち上がり、轟然と言う。 秋霜に、役目を取られたときの感覚が呼び起こされる。あの時はそれこそ図星で、反論は出来なかったが、今回は違う、と思った。何故、誰も彼も、彼女に隠すのだろう。 人を殺めることは出来なくても、秘密を守ることは出来る。それには確信があった。 「……弱いか、強いかじゃない」 十六夜が、静かな声で言った。その声は、聞き覚えのある誰かの声に、とてもよく似ている。 「あんたの心が弱いとは思っていないし、そんなの、本当のところは俺には分からない。 ……だけど、あんたは絶対に、自分に嘘をつける人間じゃない」 立ち上がっても、まだ少し高い位置から暁姫を見て、十六夜が言った。 唇を噛んで、十六夜の瞳を睨みつける。 「誰のためでもない。あんたのためだ」 十六夜の言葉に、暁姫は猛然と腹が立つのを感じていた。 自分とほとんど年の変わらないような少年に、子ども扱いされるのはごめんだった。 考える間もなく、暁姫は、十六夜の覆面に手を伸ばしていた。 単なる布で巻かれただけの覆面は、簡単に外れる。 あまりに急な暁姫の行動に、防ごうとした十六夜の手が追いつかない。 次の瞬間、暁姫は何が起きたのか分からなかった。 分かるのは、目の前に、十六夜の肩があり、自分がそこに押し付けられているということだけだった。十六夜の銀色の髪が、目の前に零れ落ちている。 「見るな」 声は、耳元で聞こえた。 十六夜が、暁姫の頭を自分の肩に押し付ける。自分には決して出せない強い力に、暁姫は混乱していた。その混乱の中で、自分の置かれている状況を、ようやく理解する。 「は……なせっ」 叫ぼうとした声が、掠れていて出ない。 「放さない」 十六夜はそういい、暁姫を肩に押さえつけているのとは別の腕を、暁姫の背に回した。 少年の体に押し付けられて、完全に身動きが取れなくなる。どんなに力を入れても、振りほどけるものではなかった。男と女の力の差というものに、愕然とする。 「……俺は、あんたに会いたかったんだ。ずっと」 耳元で、十六夜が言った。 「どんな人間なのか気になったし、俺のことを知って欲しかった。……俺だけが知っているなんて不公平だと思っていた」 「ならば……」 「駄目だ」 十六夜が、暁姫の言葉を遮る。 「あんたはそのままでいい」 暁姫を強く抱きしめて、十六夜が言う。 「……勝手な言い草だ」 かろうじて、暁姫は言った。 「そうかも知れない。だけど、あんたにはそのままでいて欲しい。 ……そのまま、綺麗なままであってほしいと思う」 抱きしめられた状態でそのようなことを言われて、どうすればいいのか分からなくなる。 力の抜けた暁姫の体を、十六夜は、さらに強く抱いた。十六夜の────少年の体に、暁姫の体が押し付けられる。少年は華奢にすら見えるのに、その胸は、暁姫を包むには充分に広かった。昨日出会い、今日は殺そうとした相手だ。その相手が、今、自分を抱きしめている。 暁姫は、目を閉じた。 「お前をここに匿ったのは、凪姫だ」 十六夜の肩に、暁姫は顔を埋めたまま、言った。十六夜が、一瞬、体を震わせたのが分かる。顔が見えなくとも、意外に嘘はつけないものだと、暁姫は思った。 「暁姫────」 「……ようやく分かった」 目を閉じると、十六夜の声が、誰に似ているのか、鮮明になる。 ─────ならば、私は誰だ? そして、心に浮かぶのは、そんな問いだ。 昨日、十六夜の言った言葉。その言葉の意味を思い出す。 「本当は、私が、お前なんだ」 暁姫は、そう言った。言葉は、口にしてから意味を形成する。 漸く、全てが繋がるような気がした。 何故、十六夜が、ここに匿われたのか。常葉の姫巫女が失踪して以後、後継が置かれなかった理由、そして、暁姫が決してその後継とされない理由。そして、彼女の母が───いや、蓮姫が、彼女を愛さなかったわけも。何より、暁姫が何故、凪姫と、生き写しと称されるまでに似ているのか。答えがあるとすれば、ここに居るべきだったのは、本当は、十六夜ではなく自分なのではないか、ということだ。─────もしも、十六夜が月人でなく、普通の子供として生まれてきていれば。 暁姫がそっと十六夜の背に手を回すと、反対に、十六夜の力が緩んだ。 触れ合う場所から伝わってくる温もりに、人と触れ合うのは心地よいことなのだ、と初めて思う。そう思うことが、十六夜が愛しいということなのかどうか、よくはわからない。 ただ、今は、そのようにするのが自然だった。そうしていたかった。 十六夜が、暁姫の頭を抑えていた腕を外し、暁姫の背に回した。自由になった頭を、暁姫は十六夜の肩に押し付ける。 心は、不思議なほどに穏やかで、曖昧だった世界は、急に、くっきりとその輪郭を現す。 まだ、確信があるわけではない。しかし──── 暁姫が少し体を離すと、十六夜の腕が緩んだ。 躊躇い無く、暁姫は顔を上げる。紅の瞳が、すぐ近くで暁姫を見つめていた。 ────銀色の髪に縁取られた白い顔は、驚くほどに、兄に似ている。きっと、その母である蓮姫にも似ているのだろう。 「……暁姫」 覆面を取り去ると、十六夜が無表情な人間ではないことがよくわかる。暁姫は微笑んだ。 「昨日は分からなかった。……お前の声は、兄上にそっくりだ」 すぐにそれに気づくには、あまりに共通点が無かった。それだけのことだったのだ。 「俺は、俺だ」 十六夜が言う。 「私だって、私だ。誰に似ていると言われようとも」 そう言った暁姫の唇に、十六夜の唇が重なった。初めての感触に戸惑いながらも、暁姫は、十六夜の唇を受け入れた。 初めての口づけは長くはなかったが、ある意味において、それは永遠を飛び越えたようなものだった。もう、その前にはもどれない。 「帰らなければ」 唇が離れて、直ぐに暁姫は呟いた。 「……そうか」 とだけ、十六夜が呟く。 どちらからともなく体を離し、そうすると、ひどく名残惜しいような気がする。 自分が今ここに居る危険を、今更ながらに暁姫は思い出していた。 彼女が館に居ないことがわかるのは、時間の問題だろう。もし、彼女を探しにここに人がやってくれば、常葉の秘密が破られる。今まで破られなかったのは、姫巫女不在の常葉が実質不要の存在であり、それゆえ、人の立ち入りが無かったからに他ならない。 「お前は、これからもここに居るのか」 十六夜を見上げて、暁姫は言った。 「いや」 十六夜が言う。 「大師も、知己もいなくなった。俺はこの国を出て行く。……もともと、大人になったら出て行くつもりだった」 十六夜の言葉に、暁姫は頷いた。 ここに居て欲しいと願う気持ちがあったが、それを望めないことは分かっていた。ここで、この弓月の地で、十六夜が人としての生涯を全うすることは不可能だ。 「俺は、生きなければならない。俺を生かしてくれた人の為に」 十六夜は呟き、強く口を結んだ。 「この地にお前のほかに、人は……」 「居る。いや、居たさ。昨日まではな」 暁姫の問いに、十六夜はそう答えた。 厩舎に繋いでいた馬を外し、表に回ると、十六夜が本殿の前にある塚の前で待っていた。まだ日は落ちておらず、十六夜は再び、黒の覆面を纏っていた。 「……昨夜、俺がここにいればな」 塚を見て、十六夜が呟く。 伝令は、常葉を回って虚空大師の庵へ。─────兄の言葉を思い出す。 今でも解けていない謎があるとすれば、それは、兄のことだった。 十六夜が何者であるかを知り、自分が何であるかを知っても、それでも兄のことをまだ、どこかで信じたいと思っている自分を感じる。 「どんな人々だった」 「婆さんが三人に、爺さんが一人。爺さんって言っても、婆さんみたいなもんだったけどな。……皆、凪姫の側近だったんだと。だから、俺を護ってくれた」 凪姫は、それだけ人の心を掴む人物だったのだろう。 松馬もその一人だったのかもしれない。 「自分たちが何時居なくなっても、生き延びられるだけのことを学べと、そう言われて育った」 「凪姫は……」 塚を見つめながら、暁姫は言った、 「凪姫は、今、何所に居るのだろう」 十六夜を匿い、ここから失踪し、彼女は今、一体何所にいるのだろう。 「ここに居る」 十六夜の意外な答えに、暁姫は顔を上げた。十六夜が、一番端、本殿に近い古い塚を指す。塚には草が柔らかく茂っていたが、その前には、花が供えられている。ここに着いたときに見た塚だ。花は少ししおれており、今日供えられたものではなさそうだった。 「凪姫は、秘密裡に処分されるはずだった俺を、館に赴き、命がけで助けたそうだ。その後、産後の無理がたたり、間もなく亡くなったらしい」 産後、と暁姫は呟いた。 「お前を産んだ直後だった」 既に分かっていたことではあったが、人に言われると、それは違って聞こえる。 暁姫は目を閉じて、再び開いた。ここに来る前と、来た後では、世界がまるで違っている。どちらが良かったのかは分からない。ただ、 今の方が、世界が明瞭だった。 「私は、ここで産まれたのか」 暁姫の言葉に、十六夜が多分な、と、言った。 夫がおらず、姫巫女という立場である女性が、子を産むことが許されることなのかどうか、暁姫には分からなかった。以前であれば、許されない、と思ったかもしれない。 それでも、今は凪姫のことが少しは分かる。 国長の血筋に月人が生まれるということがどういうことか、雪野のことを思いだすまでもない。その後の国の乱れを考えれば、処分してしまった方がいいと考えられたのは、想像に難くなかった。 「凪姫が身ごもっていたのは知られていたから、俺とお前が生まれたその日に、お前は、凪姫から引き離され───」 「今の父上と母上の子とされた」 言葉を継いだ暁姫に、十六夜は頷いた。暁姫が続ける。 「その時にお前が殺されるということを知った凪姫は、お前を助けたんだな」 「……そして、凪姫の命に免じて、俺は生かされている」 十六夜が呟いた。 どんな場合であっても、人を殺めることが正しいことだとは思えない。 凪姫は、────母は、そう信じたのだ。 「結局、全部私に教えてしまったな」 十六夜を見て、暁姫は笑った。 「ついでにもう一つ教えてやる」 十六夜が言う。覆面に包まれて表情は分からないが、何だか人の悪い言い方だった。 「お前の父親は、虚空大師だ」 暁姫は、目を丸くして十六夜を見つめた。本当なのだ、ということがわかってくるにつれて、不思議に笑いがこみ上げてきた。 自分がずっと父親のように慕っていた人は、実際に彼女の父親だったのだ。今の父親との距離や、母親に愛されなかったという記憶は、 今となっては意味の無いことだった。 「ありがとう」 暁姫は、十六夜に言った。十六夜が目を細める。微笑んだのが、分かった。 吹いてきた海風が、二人の笑いをさらっていく。 帰らなければ、と暁姫はもう一度呟いた。 馬に乗ろうとして、暁姫はふと、一つだけ確かめなければならないことがあるのを思い出した。今となってはあまり答えを知りたく無い気がしたが、聞かないわけにはいかない。 「雪野の子の父親は、お前か」 馬の方を向いたまま、暁姫は言った。 「雪野?」 答えた声が、怪訝そうだ。 「……ああ、里に出たという月人の子か」 「違うのか」 「違う」 むっとしたような声で、十六夜が言った。暁姫は、十六夜を振り返る。 「雪野なんて娘は知らないし、それにこんなことは言いたくはないが、俺は女は知らん」 あまりに不躾な言い方をされて、暁姫はかすかに頬が熱くなるのを感じた。同時に、どこかで安堵したような、不思議な気持ちだった。 その理由は分かっていた。 「すぐに、ここを発つのか」 「……今夜、夜半には。昨日の連中の狙いは、本当は俺だったのかも知れん」 「では、早い方がいいな」 暁姫は呟いた。他のことは、今はどうでもよかった。─────つまり、もう二度と十六夜には会えないということだ。 馬に乗る暁姫に、十六夜が手を貸す。離したくない手を、それでも暁姫は離した。 「俺は、あんたを忘れない。だから、あんたは俺を忘れろ。この地で、今までと同じように生きるんだ」 十六夜はそう言って、昨夜と同じように、馬の尻をぴしゃりと叩いた。馬は、あの黒馬よりは若干ゆっくりと、それでも徐々に速度を速めながら走り出す。 暁姫もまた、昨夜と同じように、遠ざかっていく十六夜の姿を、馬の背から見つめていた。 今までと同じようになど、出来るはずが無い。 十六夜は正しかった。 ──────彼女は、自分自身に嘘をつくことは出来ない。 それは、確かなことだった。 |