十.

 東雲が捜索に出した衛士が、暁姫を見つけたのは入日の少し前だった。
 衛士たちの報告によると、暁姫は、虚空大師の庵に居たところを見つかったらしい。理由を聞けば、虚空大師を偲びに来たのだ、と言う。
 悪いことが立て続けに起きていたから、人々はほっとしたのも束の間、口さがなく暁姫のことを言い立てる者達もあった。虚空大師の遺体は既に館にあり、そして、父である国長の大事に、館を留守にした暁姫に対する風当たりが強まるのも無理は無い。姫の脱出の手引きをした松馬は、暫くの間牢にて謹慎ということになった。

 武官長の早山から厭味を浴びせられ、普段は穏やかな東雲から考えが足りないと叱責を受けても、暁姫は黙っていた。心の中に、奇妙な強さが生まれているのを感じる。護られることはあっても護るべきものを持たなかった自分に、突然、護らなければならないものが出来たからかもしれない。
 神妙な顔で謝罪し本殿を出ると、回廊を曲がったところに秋霜が立っている。
 それが恒例であるかのように、秋霜が、暁姫に冷たい顔を向けた
「暁姫殿」
 暁姫は、秋霜の声に立ち止まり、一礼してそのまま立ち去ろうとした。しかし、それを予期していたように、秋霜は暁姫の前に立ちふさがった。
「秋霜殿、道をお開けいただけませんか」
 秋霜の顔を見上げ、暁姫は言った。決して強い口調というわけではなかったが、秋霜は暁姫の言葉に、少したじろいだ様子だった。不思議なものだ。今まで、恐いわけではないと自分に言い聞かせながら、いつも、秋霜を怯えていたことが、今では分かる。秋霜のことは今でも嫌いだが、恐怖のようなものは心の中から消えていた。
「勝手な行動はお慎み下さい」
 秋霜が、押し殺した声で暁姫に言う。
「それは、申し訳ありませんでした」
 暁姫の言葉に、秋霜の顔が、どこか険しくなる。
「暁姫殿。あなたを、虚空大師の殺害と関わりがあるものと考えているものもいるのですよ。もう少し、ご自分の立場をわきまえられたらどうか」
 暁姫にとっては、これは思っても見ない言葉だった。
 さすがに驚き、まさか、と声を上げる。
「……私とて、そのようなことを信じているわけではありません。しかし、これ以上このような振る舞いを続けられては困ります」
 冷たい表情のまま、早口で秋霜が、そう言った。
「あなたが困ることはないでしょう」
 暁姫は言った。期せずして、今までにないほどの冷たい言い方だった。
「私は、あなたの身を案じているのです」
 歯を食いしばるようにして、秋霜が言った。端正な顔が微かに歪む。暁姫は少し笑った。
「私がいなくなると困るとしても、それはご自分の立場のためでしょう」
 その言葉に、突然、秋霜が暁姫の両肩を掴んだ。
「何故……」
 搾り出すような声音で、秋霜が言う。
「何故あなたは、お分かりにならない!」
 呆気に取られて、暁姫は秋霜を見つめる。────秋霜の瞳に湛えられているその感情を、暁姫はいつか、どこかで見た気がした。
 そして、ああ、あの時だ、と思い出す。それは昨日、虚空大師の庵へと発つ前に、秋霜と交わした言葉、暁姫が投げかけた言葉に秋霜が垣間見せた表情と同じだった。
「……失礼する」
 そういい残し、秋霜は暁姫に背を向け、その場を走り去った。

 秋霜が立ち去った後も、暁姫はその場に動けないで居た。今まで、……本当に今の今まで、自分が秋霜を傷つけていたことなど思いもよらないでいたのだ。
 秋霜の誇りも傷つけていたかもしれない。
 ただ、それだけではないことは、さすがの暁姫にも分かる。
 あやまらなければ、と、思い、何を言えばいいのか分からない。
 追いかければよいのだろうか。だが、追いかけて、何を言えばいい。
「珍しいね。秋霜殿のほうから逃げ出すとは」
 後ろで、穏やかな声がした。─────やはり似ている、と暁姫は思う。
「兄上」
 そう言って、暁姫は振り向いた。いつもと変わらない優しげな笑みを、空木の君は浮かべていた。その兄の顔を、暁姫は真っ向から見つめた。
 逢う魔が時はとうに過ぎ、館の中は、薄闇に包まれている。
「お前に、話しておきたいことがある。おいで」
 兄は、知っているのだろうか。
 十六夜のことを。そして、彼女が本当は、何者であるのかを。
 ─────知っているのかもしれない。わからなかった。ただ、兄のことだけがわからなかった。
 けれど、今でも信じたいと思っている。暁姫は、兄の言葉に頷いた。

 空木の君に連れて行かれたのは、空木の君の寝所だった。部屋には明かりが点され、簡単な料理と、酒が置かれていた。つい先ほどまで誰かの居た気配はあるのに、誰も居ない。
 空木の君の周りは、いつもそうだ。自分が奥の席につき、空木の君は、暁姫に席をすすめる。頷いて、暁姫は腰をおろした。
「お前は昨夜から何も食べていないのだろう? 食べなさい」
「はい」
 頷いて、しかし、暁姫は箸を取らなかった。警戒をしているというよりも、今はまた、食欲よりも兄の話すことの内容の方が気になっていた。
 空木の君は、失礼するよと言って、自分は酒の杯を取る。
「兄上、お酒をいただかれては……」
 咄嗟に、暁姫は言った。体に障る、と言いたかったのだ。
「何、構わないよ。どうせ、先の長くない体だ」
 そう言った空木の君の表情は、常と変わらず穏やかだった。その表情に、不意に、暁姫は鳥肌が立つのを感じていた。
「お前は、今日は何所へ行って居たんだい?」
 視線を落としたまま、空木の君が言う。
「虚空大師の里へ」
 暁姫は言った。その言葉には、特に不自然さは無かったはずだ。
「私に嘘をついてはいけないよ」
 暁姫を見て、空木の君が微笑む。
「お前が嘘をつくと、昔から直ぐにわかった。お前は素直だからね」
 暁姫が、どんなに見つめても、空木の君は常と変わらない空木の君だ。
 言葉の調子も、微笑む様子も、何も変わらない。
 兄上、と暁姫は呟いた。
 空木の君は、兄だった。物心つく前から彼女の傍に居り、この館で、彼女を護ってくれた、数少ない一人だった。血の繋がらないことの分かった今も、その思いは変わらない。
 ─────それなのに、今、目の前にいる兄は、彼女の知らない誰かであるようだ。
「お前は、今日は常葉へ行き、十六夜に会った。そうではないかな」
 兄が、言う。
「十六夜を─────ご存知なのですか、兄上」
 思わず、暁姫は言っていた。
「ああ、知っているよ。会ったことは無いが」
 空木の君は杯を置いて、こちらへおいで、と、暁姫に言った。その言葉に、暁姫はかすかに躊躇う。だが暁姫は立ち上がって、空木の君の傍に行った。空木の君に促され、暁姫は兄の直ぐ傍に座る。
「面白い話をお前に教えよう」
 空木の君が、暁姫の手を取り、言う。
「お前は、弓月という名に疑問を持ったことは無いか」
 暁姫の手をそっと握って、空木の君は言った。触れた兄の手は、熱を持っていて、ひどく熱い。
「兄上、本当にお加減がお悪いのでは」
 暁姫が言う。
「それはいいんだ。どうだろう、不思議だとは思わないかい」
「何を、でしょうか」
 熱で潤んだような兄の目をみて、暁姫は言った。
「わからないかい。弓月の君は、本当の名は今となっては知られていないが、弓の名手だから、その名で呼ばれたと、そう伝えられている。
 ─────この国で、月人と呼ばれる禁忌の存在がいるこの地で、仮にもその主の名に、訳も無く月という言葉を使うだろうか」
 空木の君は、暁姫を見ては居なかった。灯明に、睫毛の陰が揺れる。
「私はね、暁姫。弓月の君は、月人だったのではないかと思っている。月人の一人が自分の一族に向かって、大王の軍勢を引いて反逆を起こしたのではないか、とね。そう思って調べてみると、不思議なことにより昔に戻るほど、弓月の血の者に、生まれて直ぐに死んだという記録が多い」
 そこまで言って、空木の君は、その目を暁姫に向けた。昏く、澄んだ眼差しだった。
「恐らくは、皆気づいても、口にはしないことなのだろうね。弓月の君の治世が遠くなかった日は、知られていたことなのかもしれない。だが月人が禁じられ、その罰だけが受け継がれるにつれて、そのことは秘せられ、もし月人の姿を持つ子が現れたら、その存在ごと抹殺された。恐らくは唯一の例外が、十六夜だ。……私たちには共に、月人の血が流れている。だから、産まれた子供が月人であっても、何の不思議も無い」
 そう言って、空木の君は、片手で杯に酒を注ぐ。
「願わくば、最期までお前の良い兄でありたかった。私はそれを祈っていた。
────それは、本当だよ」
 そう言って、杯の酒を煽る。
「兄上────」
 何を言っているのか、と暁姫が言おうとした瞬間だった。
 暁姫の手が、空木の君の強い力に引かれる。病身とは思えないほどの抗いがたい力だった。
 暁姫の唇が、空木の君に塞がれる。
 兄の口から、口移しに酒を流し込まる。一部が、口の端から頬を伝って零れ落ちた。
 酒は、ひどく苦く、薬のようだった。薬─────
 気づいて吐き出そうとしたが、その時には既に、痺れのような急激な睡魔が、全身を襲っていた。
「初めは、お前も殺そうと思った。一番初めにね。お前が居なくなれば、後は何も思い残すことは無かったから」
 間近で呟かれた言葉が、遠く聞こえる。
「だけど、お前は帰ってきてしまった。だから、全てはお前に残しておこう」
 兄上、と呟こうとして、声にならない。
「……ゆっくりお休み。お前が目覚める頃には、全てが終わっているよ」
 そんな声が聞こえた。
 そして、そのまま暁姫の意識は、闇の中へと引きずり込まれていった。


 自らの傍に倒れた少女の、頬に零れた薬を、そっと空木の君は拭ってやった。
 生命そのもののようなその少女を、愛しげに見やる。
「そうだね。お前ならば、私の望みを叶えることも出来たのかもしれない。
 ─────だが、それは決して叶わぬ望みだ」
 そう言って、空木の君は意識の無い少女に優しく微笑み、立ち上がる。
「東雲と早山を本殿へ呼べ。常葉へ参る」
 はっきりとした声音で、空木の君は言った。
「御意」
 声が空木の君の命に答え、軽い足音が遠ざかっていった。

 空木の君が回廊に出ると、秋霜が立っている。
「よくよく、立ち聞きがお好きなようだね、秋霜殿は」
 いつものとおりに、空木の君は言った。
「何をなさるおつもりですか。若君」
 秋霜が、語気鋭く言った。右手が、衣の合わせに入っている。懐剣を携えている、と空木の君は見て取った。
「虚空大師を殺した下手人の居場所がわかったのだ。それを、捕らえるための指揮をとろうと思ってね」
「何を今更。虚空大師を殺めたのは、あなたご自身ではありませんか」
「なかなか、面白いことを言うね。大宰殿のご子息は」
 微笑を浮かべて、空木の君は言った。
「残念ながら、大宰殿はもうおられないかもしれないが────」
「何をした!」
 秋霜が叫ぶ。
「さてね。国長に毒を盛ったが、そのことの露見を恐れて自害、といったところではないかな」
「貴様……」
 秋霜が呟いて、懐剣を抜く。
「国長に毒を盛ったのは、貴様ではないか、空木の君よ!」
「何を言うんだい」
 空木の君は、本当に心外そうに首をかしげる。
「この国で、薬師寮に立ち入り、国長の寝殿に入り、唯一疑いがかけられないのは貴様だけだ」
 懐剣を構えて、秋霜が言う。
「さんざん調べた。間違いない。……今度は、何をするつもりだ」
「君は、なかなか優秀だね」
 そう言って、空木の君は微笑む。
「だが、詰が甘い」
 その言葉と同時だった。背後から飛んできた矢が、秋霜を背中から貫く。
「ご苦労」
 空木の君が、秋霜の背後に向かって、声をかける。
「それでは、失礼するよ。秋霜殿。あまり、時間が無いものでね」
 そう言って、空木の君はきびすを返した。しばらくして、どさりと何かが倒れる音が背後から聞こえてきたが、空木の君は特に気に止めなかった。







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