十一. 重苦しい夢の内に、暁姫は血の匂いを感じていた。 意識は半ば目覚めており、起きなければ、と思うが、体は動かない。 起きなければいけない。起きて、この悪夢を終わらせなければ。 口の中に、何か流れ込むような感覚があり、それは、先ほどの記憶、兄に含まされた薬を、夢の中でまた思い返しているのだろうか、と思う。 兄を、─────空木の君を止めなければ。 目覚めたって、悪夢だ。 そんな声が、心の内でする。しかし、今目覚めなければ、彼女は全てを失うだろう。 突然、目を開けられることに気づいた。 重い瞼をこじ開けると、知った顔がのぞき込んでいる。 秋霜だった。顔色は酷く蒼ざめていたが、目を開けた暁姫を、安堵したような表情で見つめていた。 暁姫は慌てて起き上がる。 体の動きは若干鈍かったが、それでも支障なく動くことが出来た。 秋霜に、何か言わなければいけないことがある気がしたが、すぐには思い出せない。 「……気が、つかれましたね」 そう言った声が弱々しい。 「気付けです。……手持ちが利いてよかった」 何か、おかしい。夢から覚めても、血の匂いが消えない。 「秋霜殿?」 暁姫がそう言った時、秋霜の体が、ぐらりと傾き、暁姫に向かって倒れこむ。咄嗟に秋霜の体を支えながら、自分が、眠りに落ちる前と変わらず兄の部屋に居ることに気づく。部屋の中には明かりもまだあり、特に変わったことは無いように、一瞬、思えた。 下げられた御簾の向こうから、血の大きな筋と、その上を何か引きずったような後がある。それは、部屋を縦断し、秋霜のもとまで続いていた。 血と、秋霜。秋霜と、血。 その二つを繋げて考えることが出来ない。 抱えた秋霜の、肩口から向こうに、一筋の矢が伸びているのが見える。 何故───── 「秋霜殿!」 暁姫は叫んでいた。秋霜の手が、力なく暁姫の背に回された。 「あなたが、気が付いてくれてよかった」 秋霜の声は、聞いたことが無いほどに穏やかだった。 「あなたに、あやまらなければならないと……」 秋霜が、言う。 「……今まで、あなたに働いてきた無礼を、どうか……お許しいただければと思います」 「謝らなければならないのは、私です」 叫ぶように、暁姫は言った。 秋霜の体から溢れ出た血が、秋霜の衣を伝い、暁姫の衣に染み込んでいく。そこから伝わる温かさと同時に、秋霜の体から、温もりが失われていくのが分かった。 「私は、あなたを好きでした。ずっと……」 呟くような声で、秋霜が言った。 「もっと……早くにお伝えしておくべきでした。手遅れに、なる前に……」 何か、出来ることがあるはずだ、と思う。 ここで、こんな形で秋霜がいなくなるなど、思ってもみなかった。 「……あなたは、私が空木の君を悪く言うと、いつも怒られましたね。……そして、私が勝てないのを知っていて、弓の勝負を挑まれた」 弱々しくも、どこか、愉快そうな声音だった。薬師を呼びに行かなければ、と思うのに、体が動かない。その間にも、秋霜の命が、目の前で失われていくのが分かる。 「暁姫、……空木の君は、常葉です。どうか……」 「秋霜殿、もう……」 話すな、と言いたかった。少しでも長く、秋霜の生命を保たせたいと思った。 「よかった、……あなたの」 一瞬、秋霜の腕に力がこめられたように思った。暁姫にかかる、秋霜の重さが増した。同時に、背中に回された秋霜の腕が、ぱたりと離れたのが分かる。 秋霜殿、と暁姫が叫んだ声は、おそらく、秋霜には届かなかった。 ずっと、敵だと思っていた。今考えれば、何故、そんな風に思ったのだろう。 初めて会ったときの記憶は無く、思い出せるのは、ずっと、今日までの関係だ。 秋霜の態度はいつも冷たかったが、自分の、秋霜に対する敵意、彼にぶつけてきた嫌悪を思えば、それは当然だった。 ─────今際の際に、秋霜は、それでも暁姫を好きだった、と言った。 その理由はもう、永久に分からないのだ。 暁姫は、秋霜の背に刺さった矢を引き抜いた。嫌な感触と共に、ずるりと深く刺さった矢が抜ける。血が僅かに溢れ、止まる。 秋霜を殺したのは兄、なのだろうか。 秋霜の体を仰向けに寝かせて、暁姫は思った。 全てはお前に残しておこう、と、言った兄の言葉が蘇る。兄は彼女に、何を望んでいるのだろう。彼女の全てを奪いながら、全てを残す、と、そう言ったのだ。 秋霜は、兄は常葉にある、と、彼女に告げた。 兄が常葉で成そうとしていることが、何であるのかはわかっていた。 秋霜の手を取り、胸の前で組ませる。この手が最後に、彼女に機会を与えてくれた。 ─────暁姫は、立ち上がった。右手に巻いた包帯を締め直す。包帯は、秋霜の血を吸い込んで、緩んでいた。 全てが終わる前に、常葉へ行く。終わらせるわけにはいかない。 十六夜を救うために、母の賭けた生命のために、────そして何より、兄のために。 悔やんでも悔やみきれないとは、このことだ。 弓月の国の国長である灯月の君は、自分の寝所に一人、そう思う。室内は明かりが落とされ、星明りのある外の方が明るいくらいだった。先ほどまでの喧騒が、嘘のように静まり返っている。 常葉に、虚空大師を殺害した下手人が居る、と報告があった。管理の手薄になった常葉に潜んでいるらしいと。事態は、彼の手にも止められないところまで、来ていた。 間違いの始まりは、どこだったのだろうか。 せめて今日、意識が戻ったときに、名をつげればよかったのだ。彼に毒を盛った人物の名を。息子には負い目があった。それゆえ、その名を告げることが出来なかった。 ────恐らく、息子はそれを見越していたのだろうが。しかし今思えば、名を告げることで、息子を救うことが出来たのではないかと思う。 今、館にはごく少数の警護の者しか残っていない。 彼は間もなく、子を失うことになるだろう。自分と妻の間に出来た子を、二人とも。 回廊を、人の歩む音がする。息子、空木の手の者が、自分を殺しに来たのだ、と、半ば彼は予期していた。足音は、恐らくは二人。灯明が近づいてくる。軽い足音と共に、灯明に照らされた人物の姿が、御簾の向こうに見えた。 その者は、寝所の前まで来ると、御簾の向こう側に跪いた。 「父上、申し上げます」 凛とした声音が響いた。─────声の主は、妹の忘れ形見、暁姫だった。 兵舎の奥の小部屋に閉じ込められていた松馬を救い出し、暁姫が向かった先は、父、国長の寝所だった。松馬が見逃されていたのは、せめてもの救いだ。空木の君の予定に、そもそも組み込まれていたか否かは、暁姫には知る由も無かったが。 「暁姫か」 御簾の向こうの姿は見えなかったが、声ははっきりと聞こえた。 「はい」 暁姫は答え、続けた。 「私は只今より、常葉に参ります。つきまして、父上の上意を頂きたいとお願いに上がりました」 「上意? 何に対する上意だ」 父の声は、抑揚が無く、暁姫の言葉をどう捕らえたのかは分からなかった。 しかし、ここで怯んでいる暇など無い。 「私は、兄上を救いに参ります」 暁姫は、はっきりとそう思っていた。 ──────十六夜の命を救う。それは絶対の条件だ。だがそれ同時に、兄を救いたい。 兄は今、絶望と孤独の淵にある。何故、兄がそこに至ったのか、その経緯は未だ理解できているわけではないが、兄を救わねばならないと、暁姫は思う。 どんな意思が、どんな目的が介在していたのかは分からない。 ただ、兄が、この十五年間彼女の心を支え続けてきた。それは、紛れも無い事実だった。 「どのようにして」 「分かりません。でも、十六夜を兄上に殺させるわけにはいかないのです」 十六夜、という名を口にしたとき、期せずして、御簾の向こうの父が動いたことが分かった。御簾が動き、父が姿を現した。思ったよりも、しっかりとした足取りだった。灯明台を置いて、松馬が叩頭する。暁姫は、顔を上げたまま父の顔を見る。 「……知っていたのか」 兄よりは、自分に似ている顔を向けて、父が言った。 「はい。十六夜は、命の恩人です。 ─────そして、私の母が、命をかけて救った相手でもあるのでしょう?」 そう言って、暁姫は微笑んだ。 「決して殺させるわけにはいきません」 「……分かった」 「では─────」 父の言葉に、暁姫は言葉を続けようとした。しかし、父に遮られる。 「私も常葉に参ろう。お前だけを行かせて、ここでのうのうと寝ているわけにはいかん」 そう、国長は言った。 「父上」 驚いたような暁姫の言葉に、灯月の君は微かに笑みを浮かべた。 「────本当に似ている」 「母上と、でしょうか」 暁姫は、言った。 「嫌がらないのだな」 はい、と答えて暁姫は笑った。 十五年前のある夜のことを、彼ははっきりと覚えている。 その日、彼は、眠れない夜が明けるのを待っていた。 庭に産屋が建てられ、母はそこにいるらしいということは知っていたが、近づくことは禁じられていた。 幼いながらに、彼は、自らの立場をはっきりと自覚していた。自分は、国長の世継である。─────今は。 今日母が子を産む。もしもその子が男子なら、人々の関心は、自分ではなく、そちらに向かうだろう。それは、この館で、この国で、彼の存在意義が失われることに他ならなかった。母が身篭ったときから、早、男子の誕生を望む声が彼の耳にも聞こえていた。 生まれたときより病弱で明日をも知れず、国長に相応しくないという話を誰かがしているのを、耳にしたことがある。成り立ちからして武に秀でていることが求められるこの国で、彼は望まれた存在ではなかった。 母が子など産まなければ良いのに、と、彼は願っていた。 夜半、赤子の泣き声が聞こえた気がした。 彼はそっと寝所を抜け出し、産屋の見えるところで様子をうかがった。本殿では、要職にある者たちが、新しい若君の誕生を待っており、人の声が時折聞こえてきた。 空にかかった僅かに欠けた月が、西の方に傾き始めている。 産婆が、慌てて駆け出すのが見え、父を伴って戻ってくる。 直ぐに父は産屋から出て、何事か、自分の配下に話しているのが聞こえた。 言葉の内容は聞き取れなかったが、常葉へ、という言葉だけが聞き取れた。 国長と、世継だけが許される直属の配下は、衛士というよりも忍びの者に近い。 黒い影が速やかに走り去るのを、彼は見た。 父が、産屋に戻った。 産屋の中から聞こえてくるのは、赤子の泣き声と、母のすすり泣く声だった。 彼は自分の部屋に戻ったが、館の中は、本殿のかすかなざわめきと、耳に残る母の泣き声以外に物音はしなかった。 夜が明けて姫君誕生の知らせが、彼にも告げられた。館中の落胆の中、これがお前の妹だ、と、見せられた赤子が、母の子ではないことを、何故か彼は理解した。 母はその日、産屋から姿を現さず、その夜は雨が降った。姫とはいえ、国長の子が生まれた宴が開かれていたが、彼は喘息の発作で宴には出なかった。 雨は降り続き、やがて、激しい豪雨となった。その雨の中、馬を走らせて人がやってくるのを彼は見た。衣を頭から被っていたが、その人影には見覚えがある。 咳に悩まされながらも、彼はその人影を追いかけ、それが産屋に入るのを見た。 雨の音の向こうに、何か、話す声がした気がする。 やがて、産屋の戸が開き、何かを抱えてその人影が現れた。 そちらを見ている自分に気づき、彼女は、彼に向かって微笑んで言った。 「暁姫を、お願いします」 雨の中でも、その言葉ははっきりと彼の耳に届いた。 蒼ざめ、雨に濡れたその姿が美しかったことを、彼は鮮明に覚えている。 そのまま、その人影は再び雨の中に消えていった。それが、彼女を見た最後だった。 二日の月は、海に沈もうとしている。 空木の君はあの時凪姫が抱えていたものを、初めて目の当たりにしていた。 常葉は、彼の率いてきた衛士たちに包囲されている。何所からも逃げる隙など無い。 少年は弓で応戦していたが、矢が尽きたところで、空木の君の配下に取り押さえられた。 衛士たちには足や腕を居ぬかれた者たちが居たが、致命傷を負った者は無いようだ。少年は、腕が立つ割に、殺しを嫌うようだった。 目の前に連れて来られた少年は、黒い装束と黒い覆面に身を包んでいる。 早山に衛士たちをまとめ、帰還の準備をせよ、と指示を出し、声の届く範囲に、空木の君と少年、空木の君の配下たちだけになったところで、空木の君は口を開いた。 「お前に聞いておこう」 微笑んで、空木の君は言った。 「どちらがいい。全てを明らかにするのと、虚空大師を殺め、衛士を殺めた下手人として、この場で全て伏せられたまま始末されるのと」 少年の紅い瞳が、空木の君を睨んだ。 「どちらを答えても同じだろう。あんたは、自分の望んだようにしかしない」 少年の物言いが妙に新鮮で、空木の君はふふと笑った。 「何がおかしい」 少年が言う。 「いや。もしお前が月人でさえなければ、私に代わって皆に大切にされていたのだろうね」 「知ったことか。俺は俺だ。そうでなければいいと思ったことは無い」 はき捨てるように、少年が言った。 「さあ、困ったね。私も迷っているのだよ。どちらが良いものか」 「何にとってだ」 少年の問いに、空木の君は微笑む。 「暁姫に残す、この国の形として……ね」 その言葉に、少年の目つきがさらに険しくなった。 「怖い目をするね。秋霜殿もそうだった。あの娘を好くものは、私を嫌うようだ。 ────私は暁姫を憎んでいると言うのに」 その瞳を見ながら、おかしそうに空木の君は言う。 「暁姫は……血は繋がらずとも十五年間、あんたの妹だったんだろう。彼女はあんたを兄と慕っている」 「私はね、十六夜の君よ。暁姫を妹と思ったことは、一度も無いのだよ。幼い時からね」 十六夜の言葉にそう答えてから、空木の君は考えるように首を傾げた。 「全てを明らかにするのもいいが、そうすると今すぐお前を処分するわけにはいかないし、そうなると、暁姫は彼女の母と同じように、是が非でもお前を助けようとするだろうね。それはあまり面白くない。やはり、ここで始末するのがいいだろう。全てが明かされるのは、それからでも遅くは無い」 そう言った空木の君の顔には、邪気の欠片もない。 「─────暁姫は、どこに居る」 「今は、館に居るだろう。よく眠っているよ」 空木の君は、少女の唇の感触を思い出すように、自分の唇に触れる。 そして、柔らかに笑みを浮かべた。 「では、我が弟よ。さらばだ」 社の前の草地、かがり火の焚かれる下に、白刃が煌くのが見えた瞬間、暁姫はそこに向かって矢を放っていた。 刃そのものを狙ったつもりだったが、距離と痛む右腕に、かすかに狙いが狂う。 暁姫の放った矢は、その刃を持つ手を射抜いていた。 「間に合ったようですね」 と、東雲が言った。その隣には、父が居る。 臥せっていたはずの国長の姿に、衛士たちがどよめき、道を開ける。 館に残されていた東雲は、出立しようとする国長と暁姫の姿を見ると事情を察してか否か、供を申し出た。 暁姫の血に染まった衣を見、秋霜のことを聞くにつれ、東雲は頭を振り、優秀な方であったのに惜しいことをしました、と呟いた。 草地に出ると、暁姫は飛び降りるように馬から降りて、自分が矢を放った方向に駆ける。 空木の君の従者たちに腕をつかまれたまま十六夜が、暁姫、と叫んだ。 十六夜の無事な姿にほっとしたのも束の間、暁姫は、足を止めた。 兄が、─────暁姫が放った矢に、手を貫かれているのは、彼女の兄だった。 「兄上!」 叫んで、そちらに駆け寄ろうとする。 「来るな」 と制止したのは、兄だった。 「……お前は、いつも私の計画を狂わせるね」 空木の君はそう呟くと、手に刺さった矢を引き抜き、血の滴る右手を衣の袖の中に仕舞った。 暁姫の姿を見て、空木の君は痛みに耐えるようにしながら、無理に微笑む。 「秋霜殿か。あの男も執念深い」 そう、空木の君は呟いた。袖口から、ぼたぼたと血が垂れ落ちる。 不意の隙をついて、十六夜が従者の腕を振り払った。 その背中に空木の君の従者が、抜き身の太刀を振り下ろそうとした瞬間だった。 「止めよ」 という大音声が、常葉の地に響いた。 強い覇気に、従者の手が止まる。声の主は、国長だった。 その後ろで、東雲が太刀を構えた従者に向かって、弓を番えている。 「……私の腕は、暁姫ほど良くも無ければ、優しくもありません」 東雲が言う。─────動いたら殺す、ほどの脅しだ。 十六夜の無事に安堵しながらも、暁姫の注意は、兄に注がれていた。 自分の弓が、人を、─────兄を傷つけたことが信じられない。 「暁姫!」 十六夜の制止を聞きながらも、暁姫は兄の元に駆け寄っていた。 「兄上……」 そう言って、暁姫は血を流す兄の手を取った。衣を引き裂き、急いで止血を施す。 「駄目だよ、暁姫」 頭の上で、兄がそう呟くのが聞こえた。 ぴた、と、首筋に冷たい感触を覚える。暁姫は顔を上げた。 兄の、左手に持った小刀が、暁姫の首に当てられている。 「馬鹿なことは止めろ、空木」 父の声が聞こえる。 「東雲殿。どうたい。従者を射ることは出来ても、私はどうだろう」 微笑を浮かべたまま、兄が言う。 「若君、そのようなことをして、一体何になります」 困惑したように、東雲が言った。遠くでは衛士達や早山が、何事が起きているか理解できず、固唾を飲んで見守っている。十六夜の姿は、この位置からではわからなかった。 「何に、か。私はどうなることも望んではいない」 空木の君が言う。 「私は、全てを壊したいだけだ」 暁姫は、空木の君の顔を見つめた。 「予定が狂ったね」 空木の君が、暁姫の顔を見つめて、微笑む。 「全て壊した上で、お前に全部置いていこうと思っていたんだ。だけど、どうもそれは出来ないようだから、やはりお前を連れて行くことにしようか」 沈黙が降りる。視界の中動くものは、かがり火と、風に揺れる木々の梢だけだ。 「兄上」 暁姫は、静かに言った。 「兄上は、本当は何を望まれていたのですか」 「本当は、か」 そう言って、言葉を切る。 「十六夜の君、動くな」 暁姫の背後に向かっていう。暁姫からは見えなかったが、十六夜が、暁姫を救おうと動いたと言うことらしかった。微かに、刃が首筋に食い込むのが分かる。 「……私はね、暁姫。もしも、生まれてきた私の子が生きることを許されるのならば、全てを許そうと思っていたのだよ」 口元には微笑が漂っていたが、微かに目元が厳しくなる。 「生まれてきた子……」 暁姫の呟きに、空木の君が頷いた。 「そう。一人は、生まれることすら許されなかった。もう一人は、お前も知ってのとおり、生きることを許されなかった」 その言葉に、暁姫はようやく気づいた。 「それでは、─────雪野の子は」 空木の君は頷くことはしなかったが、その眼差しがそれを肯定していた。 「そんな、何故ですか。あの時、兄上は─────」 「他に、どのように言いようがある? あの時、あの場で。殺すなといえば私がその親だと認めるだけだ」 そう言った空木の君の顔から、笑みが消える。 「何故、と思ったものだよ。蛍姫が死んだ原因は、本当のところはわからない。 ────柊白殿の差し金によるものか、天意だったのか。だが、どちらでも同じことだ。 だから、国長の血筋の者としてでなくとも良かった。私の血が、私の命を継ぐ者が、この世に生きることを許されるのならば」 再び、空木の君は微笑む。 「これは、賭けだった」 空木の君は、暁姫を見つめた。 「だが、私の子が生きることは、拒まれた。だから私もこの世界を、この地を許さないことに決めた」 そう言った空木の君の顔は、天上の存在のように透明で美しい。 「……身勝手な」 呟いたのは、東雲だった。 「あなたには分かるまいよ、東雲殿。自分の命の終わりを数えられている者の気持ちが、自分の死後の計画が、常に周囲で囁かれている者の気持ちが。なるほど、人はいつか死ぬかもしれない。しかし、片時もそのことから逃れられず、一日生き長らえる度に、近づく死を実感する。そんな者の気持ちを、分かるはずが無い」 空木の君の口調は、常の柔らかな口調だった。まるで、別のことを話しているように、穏やかで、楽しげですらあった。 「父上と柊白、そして秋霜と暁姫、お前は、私が死んで以後のこの国を担うものだ。 そして、十六夜、虚空大師は死ぬはずだったところを救われた者たち。不公平だと思わないか。生きられない者もあるというのに」 兄の言葉に、何か言いたかった。正しいとは思えない言葉の数々が、それでも、兄の柔らかな口調の中で、鬼気迫る真実味を与えられ、発せられている。 「……このようになるまで、お前の心に気づかなかったことに恥じ入るばかりだ」 父が、言った。 「父上。私は、誰かの所為だとは思っておりません」 空木の君が言う。 「ただ、許せないというそれだけのことです。─────特に、暁姫。お前の存在がね」 後半は、暁姫の顔を見て、言葉を紡ぎだす。 「何故ですか」 はっきりとした口調で、暁姫は言った。 「お前は、決して望まれた存在ではなかった。それなのに、お前は、まるで命そのものだ。強いようでいて脆く、それなのに、例え今のような時であっても、お前は、生きることを手放そうとしていない。─────私の持ち得ないものを、お前は持っている。私が手放したくなくとも、指の隙間から零れ落ちていくものを」 そこまで言って、言葉を切る。 「だから、お前からお前自身以外の全てを奪って、お前をここに残したとき、お前がどうするのか、私は知りたいと思った。もちろん、私が見ることは出来ないが」 暁姫は、真っ直ぐに兄の顔を見つめた。恐怖心は無かった。 また、不思議なことに、傷ついてもいなかった。 「兄上」 暁姫が、口を開く。 「私が今、そのように命を持ちえているとすれば、それは、兄上のお陰です。この十五年間、兄上がいなければ、私は、生きていたとしても、今のようではなかったでしょう。 ですから、もし兄上がこの命を返せと言われるのならば、私は喜んでお返ししましょう」 止せ、という十六夜の声が、背後から聞こえた。 「いいんだ」 暁姫は振り返らず、十六夜に言う。 「ここにはお前と兄上を救いたいと思って来た。もし、私の命一つでそれが叶うのならば、それは決して悪くは無い」 空木の君は、一瞬、不思議なものを見るように目を細める。 首筋に当てられた刃に一瞬力がこめられる。けれどもそれがついに引かれることはなかった。 「……ああ、そうか」 そう言って、空木の君が笑う。その顔は泣き顔のように歪んでいたが、暁姫は兄が初めて、本当に笑ったような気がした。 小刀を握った左手を降ろし、暁姫に貫かれた右手を、暁姫の頭にそっと置く。 「お前を殺せなかったわけが、やっとわかった。 私の命は────私の命を継ぐ者は、お前だったからだ」 |